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 恵悟がもう間もなく都会から戻って来るという頃になり、僕は毎日朝早くに起きてはいつもの待ち合わせ場所に向かっていた。もしかすると今日こそ恵悟が来るのかも知れない、そして今日で恵悟と会うのも終わりになるかも知れない、そう思うとほんの一時でも一日の時間を無駄にしたくなく、ましてや恵悟を待たせられるはずもなかった。
 また今朝も、朝食を掻き込むように食べてから里を飛び出していつもの大岩に向かった。まだ残雪の多い山道を一気に駆け抜ける中、蹴り上げた雪が散って雪駄と足の間に挟まりかじかむも、それを取り除く暇すら惜しんだ。実はもうもう恵悟が来ていて、僕を待っているような気がしてならないからだ。
 程無く大岩まで辿り着くとやはりそこに恵悟の姿は無く、落胆と、待たせずに済んだという安堵感で息を一つついた。それからいつものように大岩の上へ腰掛けて雪駄の雪を払い、しばし汗ばんだ体を休めつつ山の麓を見下ろす。麓から伸びる小道は先に行くほど広く立派な舗装された道路となり、途中別の道路と交わった末に町へと辿り着く。ここからではうっすらとしか見えないけれど、人間の町がとても華やかで明るい所だという事ぐらいは分かる。こうしているといつも、自分が人間の町へ行った時の想像に何時の間にかのめり込んでしまう。そのほとんどが想像の世界だけれど、想像すればするほど僕の中では現実味を帯びてきて本当に行ったような気持ちになれた。恵悟はきっと人間の町でも楽しい遊び方を知っていると思う。いつか一緒に遊びたいと思ってはいたけれど、現状それは限りなく不可能に近くなってしまった。
 汗も引いて体も休まると、今日はどのようにしようか考えを巡らせた。この状況では、普段のように一人遊びに興ずる気分にはなれない。かと言って、冷たい大岩の上に一日中座っているのも無理がある。それでいつもは、恵悟と作った秘密基地まで足を伸ばすのだけれど、今日はそれも気分ではない。
 一足早く、長老の目の届かない場所を探してみようか。そんな事を考えていた時だった。
「ん?」
 ふと見下ろした眼下の小道、そこにのろのろと登ってくる人影を見つけた。確認するまでもなくそれが誰なのかはすぐに分かったが、思わず身を乗り出してその姿を良く見ずにはいられなかった。
 しばらく登って来て、やがて向こうがこちらに気付き手を振る。僕もそこで同じように手を振り返す。すると恵悟は背負っていたリュックを背負い直し、一気に残りの山道を駆け登り始めた。けれど、案の定すぐに体力が尽き、再び足を止めてのろのろとした元の歩度りに戻った。
「小太郎、久しぶりじゃないか。随分早いね。どうしたの今日は?」
「たまたまだよ。今日は何か早く目が冷めちゃって。最近遊んでないからさ」
 ようやく辿り着いた恵悟は、大分息を苦しそうに切らせてはいたものの、いつも通りの明るい様子で話し掛けてくれた。都会に行っている間、特に何事も無く過ごせたようである。自分とは違って問題が起こらなかった事に、これ以上事態は複雑にならずに済むかと一安心する。
「じゃあさ、早速秘密基地に行こうよ。ちゃんと手入れはしてたんだよ」
「いや、ちょっと待って。少し休んでからにしよう。ああ、そうだ。僕、薬の時間だ」
 そんな事を言いながら、恵悟は大岩の上に腰を下ろして背負っていたリュックの中身を探る。相変わらず色々な物が詰まっていそうな大きなリュックである。そこから恵悟はいつもの金属の水筒を取り出してごくごくと飲み始めた。ほのかに漂う甘い香りに、また水やお茶ではない人間の飲み物を詰めて来たのだと、半ば羨ましそうに僕はそれを見ていた。
 この爽やかな表情の裏に、あんな気分の悪くなるような事件が潜んでいるなんて馬鹿げている。そう切って捨てたくなるものの、今この会話を長老が監視している事を思い出し、そんなに安易に結論付けてはいけないと気を引き締めなければならなかった。
「ああ、うまい。やっぱり体動かすのって気持ちいいよね。なんかこう、体の中から悪いものが出て行く感じがしてさ」
「何か悪い所でもあるの?」
「例えだよ、例え。要するに、運動しない癖が治っているような気分に浸れるって事だよ」
 僕にはその運動という概念が良く分からなかったが、体を動かすのが気持ち良いというのは賛成出来る。今回の事といい、何か気分の沈む嫌な事があっても、体を動かしている内にそれが気にならなくなり考え方が前向きになるのは、僕にも経験がある。僕の場合それはただひたすら一日中遊び倒す事なのだけれど、人間ではちょっとそれとは違っているようである。
「ところでさ、都会はどうだった? 何かあった?」
「別に。何も無いよ。相変わらず学校は退屈で仕方ないってだけさ。まあ、そういう意味では最悪だったね」
「何か変な事件とか、そういうのは?」
「事件? 前も言ったじゃんか。都会じゃ変な事件なんて毎日のようにどこかで起こってるってさ。僕の周りでは何も無かったけど」
 そう笑いながら答えた恵悟は、再び水筒の中身をごくごくと喉を鳴らして飲み始めた。
 何気ない受け答えだった、そう僕は思う。しかしその一方で、心臓はどくんと嫌な鼓動を一つ鳴らしていた。
 恵悟が都会にいる間、何も事件は身の回りでは無かったという。けれど、僕はそれを疑っていた。何故なら、一昨日に惣兄ちゃんが長老の命令で町から買ってきた人間の雑誌には、またあの学校で全く同じ手口の事件が起こっていたからである。都会でも有数の名門校、人間の社会で地位の高い家の子供が数多く入学しているそこでは、自殺に見せかけた明らかな他殺による殺人事件が頻発している。しかも被害者は全員進組の関係者という共通点もある。その事件の犯人が恵悟ではないのか、それが長老の見解なのである。
 恵悟は嘘をついて何も無かったと言っているのか、はたまた本当に何も無かったからなのか。どちらでも悪い結論に辿り着く可能性があり、それを想像した僕は途端に緊張で息が苦しくなった。
「何かした、それが? 小太郎って、人間の社会の事件なんて知らないんじゃなかったの?」
「いや、それがね。実は大人達がちょっと今噂をしてて」
「どんな?」
「何かね、どうやら一族の術を人間の町で悪用している輩がいる、だとか。本当にただの噂でしかないんだけどさ」
「ふうん、そう」
 思っていたよりも軽い恵悟の返答。さほど関心も無いからそうなったのか、初め僕はそう思った。けれどもそんな話をしたその一瞬、僕は確かに目にしてしまっていた。普段のように気の抜けた調子のものだった恵悟の眼差しが、ほんの一瞬、訝しげに形を変えた様を。