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 そういえば、恵悟はそもそもこの山には天狗を探しに登ってきたのだった。
 その時、何故か僕はそんな事を急に思い出した。恵悟と会ったばかりの時、恵悟は僕にそう話した。初めて面と向かう人間に好奇心ばかりが沸いていた僕は、山へ来た理由などどうでも良いことだった。けれど、この時に少しでも気に留めていたら、もう少し僕達の関係は変わっていたのだろうか。そう思う。
「小太郎のくれたこれさ、いつも持ってるんだ。肌身離さず。親以外で人から物を貰ったのって初めてだったからね」
 恵悟が上着の内側から取り出して見せたのは、僕があげたあの石。一族の神通力が宿っている石だ。これを額に当てる事で、誰からも姿が見えなくなるのである。
「本当、嬉しかったなあ。貰ってしばらくは、事あるごとに意味も無く眺めてたよ。それにさ、学校に行っても石の力を使えばちっとも怖くないし。最初はどうしても半信半疑だったけどね、次の日からは学校行くのが楽しみになってきたよ。今までなら有り得なかった事だよ。世界がこう、ぐるりと逆転したような気持ちさ」
 小太郎は僕の方から視線を外し、そっとどこでもない空に向かって移した。何故僕の方を見ないのか。普段なら何でもない仕草なのだろうけれど、今は無性に不安感を掻き立てられる。
「いつも僕に絡んで来る連中さ、ずっと不思議がってたよ。何か最近捕まえられないって。見てておかしかったよ。何度か目の前で露骨に消えてやったりしてさ、そしたらずっと首傾げてるんだもの。元々頭も良くないくせに、幾ら考えたって無駄なのにね。あんまりおかしいから、後ろから小突いたりしてやったよ」
 さも可笑しそうに歪む恵悟の横顔。僕は申し訳程度に合わせて口元だけ僅かに緩めた。果たしてそれは僕と約束した悪用の範囲に入るのか。話の本筋と関係が無い、そんな事を考える。
「でもさ、それから思ってもみなかった事が起きたんだ」
「思ってもみなかった?」
「あいつらさ、僕が捕まり難くなったかと思うと、今度は目標を別な奴に変えたんだ。僕と同じように、喧嘩が弱くて声もあまり出せないような奴に」
「えっと……それじゃあ恵悟は」
「そう、あいつらから解放されたんだ。念のため、あいつらの前にわざと姿を見せたりしたけどさ、もう興味が無いって反応だった」
「良かったじゃないか。これでもう、学校へ行っても嫌な目に遭わなくて済むんでしょ」
「良かった?」
 唐突に、恵悟の声色が変わった。たまに僕が、恵悟のような都会の人間からすればずれた言動を取ると、このように恵悟の口調ががらりと変わる事がある。だけどそれは半分以上が冗談で、世間を知らない僕をからかう方向にしか向かなかった。でも今の声色は明らかにそれとは違っていた。苛立ちよりもっと剥き出しになった怒りが感じられる。
「良かったって何が? 僕はね、ちっとも嬉しくないんだよ。それどころか無性に腹が立ったんだ」
「どうして?」
「人を散々玩具扱いしておいて、飽きたら捨てる。壊れたから捨てるみたいにね。あいつら、ああいう事をしてもそれは全然大した事じゃないって思ってるんだ。僕がどれだけ苦しんだのか知りもしないでさ。僕の存在なんて、昨日食べたお茶受けぐらいでしかないんだよ。あいつらの中ではさ!」
 振り上げた恵悟の拳が勢い良く岩の上に振り下ろされる。どんっ、と鈍い音がし、恵悟の手からは一筋の血が流れた。手が裂けるほど強く叩きつけたのだ。けれど、恵悟はそれについて何ら痛がる素振りを見せなかった。痛みよりも、思い出した怒りの方がずっと大きいからだ。
「許せるかよ、こんなの」
 ぎりりと奥歯を噛み締め、苦々しげに吐き捨てる。その様を見て僕は、あ、と小さく声を漏らした。それが、自分にとって一番繋がって欲しくなかった線だと、僅かに遅れて気づいた。
「恵悟は……まさか、仕返しを……?」
「そうだよ。やってやった」
 あっさりと答える恵悟。その目は不気味なほど光って見えた。
「で、でも、石は悪い事に使わないって約束したじゃないか」
「仕返しは悪い事なのかよ」
「え?」
「やられたからやり返すのが、そんなに悪い事?」
「だって、そうしたら延々と続くじゃないか。争い事が」
「だから、黙って泣き寝入りするのが正しい? あいつらは、これだけ人を苦しめた癖に、何も裁かれないで安穏と暮らすんだぞ。それが正しいのか?」
 正しいのか、正しくないのか。それは僕にとってとても両極端な考え方に思えて、どちらとも答えられず言葉に詰まってしまった。僕にはそもそもどういう時に仕返しがしたくなるのか、経験そのものが無かった。恵悟に、仕返しについて何か言えるような立場ではない。だけど、一つだけ言える事がある。何よりも友達として恵悟に言わなければいけないことだ。
「いいか、小太郎。復讐は正当な権利だ。やられたからやり返すのは悪い事だとか、そんなの明治に出来た憲法の理屈だ。やられたらやり返すのが、本来あるべき姿なんだよ!」
「だからって、殺すのはやり過ぎだよ!」
「だったらどこまでならいいんだ? 僕はたまたまこういう石を手に入れたけど、あいつらは僕が死ぬまで続けるよ。自分はするけどされるのは駄目なのか?」
「そんなに仕返しが大事なの……?」
「ああ、大事だよ。そうしなきゃ僕は、辛い記憶を忘れて本来あるべき人生を正しく送れないんだ。それなのに、僕を苦しめた奴らが普通の人生を送れるなんて許せるか」
「じゃあやっぱり、あの事件は……」
「事件? はっ、まさか小太郎のとこに週刊誌でもあるの? 誰か買い集めでもしてるの? まあ確かに、色々な所で特集されたみたいだね。不可解な事件だってさ」
「ああいうやり方も、わざとなの?」
「そうだよ。本当に自殺だって思われたら、みんなすぐに忘れちゃうじゃないか。あれは見せしめなんだよ。真っ当な生き方をしてないから、まともな死に方が出来なかった、そういうね。ただ死んで終わりじゃ復讐にならないだろ」
 自分を害した人の命だけでなく、人生そのものを奪いたくなるほど、激しく憎んでいる。恵悟の姿は僕の目にはそう映った。
 どうすればそこまで人を憎めるのか。どんな事をされるとそうなるのか。僕にはもう想像の付かない異世界の話でしかない。人間は僕達一族とは違って、時には恐ろしいほど残酷になる。蔵で読んだ人間の雑誌から、僕はそう思っていた。でも本当は少し違うようだ。残酷な事が出来るように変質するのではなく、ただ残酷な振る舞いをあえて行っているだけなのだ。全部、長老の言った通りだと思う。人間は、こういう残酷な振る舞いそのものが生き物の一部として組み込まれているのだ。普段は表に出て来ないだけで。僕達天狗と恵悟達人間は、やっぱり、全く違う生き物なのだ。
「小太郎、僕は約束は破ってなんかいないよ。僕は悪い事になんか使ってない。僕を守るために使ったんだ」
 恵悟にはもう、僕の言葉はちゃんと届いていない。その歪んだ表情が、何か僕の中で大事なものを諦めさせようとしている気がした。