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「よっ……と。お、危ない」
 恵悟は両手を広げて重心を安定させながら、ゆっくり確実に進んでいった。視線は足元に注がれ、僅かでも不安定になる動作は取るまいと必死になっている。今は風も収まり穏やかだが、一度でも突風が吹けばあっという間に足元を取られてしまう、実に危なげな足取りだった。
「なあ、小太郎。結構進んだんじゃないか?」
「全然だよ。一歩近付いただけで手が届く」
「えー、まだそんなもんか」
 ゆっくりと振り返り、自分がどれだけ進んだかを確認すると、如何にも納得のいかなさそうに表情をしかめる。そして、まだこのぐらいでは格好悪いと、再びじりじりと前に進み始めた。
 そう、まだ僕の手は恵悟の背中に届くのだ。自分と恵悟との距離を見た僕は、改めてこの距離を強く意識した。
 もしここで恵悟の背中を押したなら。不意をつかれた恵悟は足を滑らせて真っ逆さまに落ちていくだろう。この下は大小の荒い岩が転がっているだけであり、無事で済む可能性は限りなく低い。万が一の事が起こったとしても、自力で立ち上がれるはずはない。もう不意をつかなくとも、どうとでもなる状況だ。
 おもむろに自分の手の平を広げて見つめる。何も難しい事ではなかった。それに、もはや選べる選択肢は無いのだから、迷う事もないのだ。長老は掟を破った僕にそうする事を望んでいるのだ。
 一歩、音が立たないよう慎重に足を踏み出す。恵悟は依然と慎重に前へ進む事だけを考えている。僕が後ろで何を企もうなど全く注意が向いていない。
 距離は十分だ。気配も悟られていない。後は、手の一押し。
 ゆっくりと両手を持ち上げて胸の前で構える。このまま引き絞った腕を前に突き出せば、それで終わりである。しかし、僕はその腕を伸ばす事が出来なかった。もう後戻りの出来ない自分の立場は知っている。恵悟がもはや僕の思っていたような友達ではない事もそうだ。それなのに、たったそれだけの事が出来ない。ここで一押しすれば全ての問題は片付くのに。思わぬ自分の気持ちの熱が歯痒かった。
 そんな時だった。
「うわっ!?」
 慎重に進んでいたはずの恵悟が、突然姿勢を崩し前へつんのめる。直後、持ち直そうと咄嗟に踏み出した足の位置がいけなかった。その足は今までのように道幅や起伏を良く見てはおらず、よりによって崖の右端の如何にも地層の脆い所を踏んでしまう。恵悟はそこから下へ引っ張られるように転倒した。足を強く踏んだ勢いのせいか、両手をついたのと同時に腰の辺りまで崖の外へと投げ出される。辛うじて岩の出っ張りを掴み残る恵悟、しかし明らかに自分の体重を支えきれていないのと、突然の事に気が動転してしまい表情が半ば呆然としてしまっている。
「ちょっと待って! すぐ行くから!」
 僕はすぐさまそこに駆け寄った。足元が危ないとは分かっているものの、いちいち自分の事を気にかける暇は無かった。ほとんど反射的な行動である。
「大丈夫、落ち着いて。下手に動くと支えられないから、出来るだけ静かに」
 崖の縁にしがみつく恵悟の元へ屈み、自重をかける位置を良く確かめながら恵悟に話しかける。一番大事なのは恵悟を落ち着かせる事である。ここで恵悟に下手に動かれると、うまく引っ張り上げられないばかりか自分まで道連れになってしまう危険性があるのだ。
 足を出っ張りに引っ掛け、恵悟の右手を両手で掴む。それから指を一本ずつ静かに剥がしながら自分の手に絡め、しっかりと離さないよう握り込める形を作る。恵悟は僕の言う事に驚くほど素直に応じた。こんな事になるような事態を想像していなかったのだろう、驚きと恐怖が入り混ざって心が無防備な状態になっている。考える事が出来ないから、僕の言う事にそのまま従うのだろう。
「じゃあ引っ張るよ。ゆっくりね。一度には引き上げられないから、あまり無理しないで」
 短い掛け声で互いに力の同期を取り、ゆっくりと少しずつ恵悟を引き上げる。恵悟は僕とあまり体格には差は無いのだけれど、状況がこんな状態のせいか想像以上に重く感じた。ゆっくりとは言ったものの、時間を掛けていたら引き上げるよりも先に僕がへばってしまう。少しはめりはりを付けて引き上げられる時に一気に引き上げた方が良いのかもしれない。
 どれくらい自分に余力があるのか。そんな計算をしていたその時だった。ふと僕の脳裏をある言葉が掠める。
 別にこのまま手を離せばいいのでは?
 予想外の事態でこんな事を見落としていた、僕は目の覚めるような思いだった。初めから助ける必要は無かったのだ。あのまま恵悟が下へ落ちてくれれば、それで当初の目的は達成出来たはずなのだ。
 それを、どうして僕は助けてしまったのだろう? その疑問は、僕の背中に針金を差し込んだような脳幹まで直接響く冷たく鋭い感触がして、一瞬微動だに出来なくなった。
 果たして、本当に恵悟を切り捨てたいのだろうか?
 あれほど父や長老に反抗したというのに、こうもあっさりと翻せるものなのか?
 本心は変わっていないが、そうせざるを得ない状況に追い込まれてしまったから、仕方なく従っているだけなのか?
 そもそも僕は、掟よりも友人の方が大事ではなかったのか?
 あの時、はっきりと悟ったはずだった。僕にとって恵悟は大事な友達でも、恵悟にとって僕はそうでもなかったのだと。だから、純粋に掟に従うためだけの事ではない、僕個人の仕返しでもある。僕を騙し術を悪用した、その報いなのだ。
 だけど、本当に恵悟は初めからそんなつもりで僕と遊んでいたのだろうか。少なくとも最初の頃は、お互い一緒に遊ぶ事がただ楽しかったのではないだろうか?
 ならば、何が一体こうも歪ませたのだろうか。
 掟を破った自分のせいではない、そう言い切れはしないか?
「こ、小太郎。大丈夫、ちょっと落ち着いてきたよ」
「よし、それじゃあそろそろ……」
 その疑問を挟んだ瞬間だった、僕は一呼吸ついた後に全身からありったけの力を振り絞った。