BACK

 僕が家に着いて母と二人で夕食を食べようとしていた頃、父は帰ってきた。肩から革袋を一つぶら下げていて、それはどこかに買い物をしてきたといった風体だった。
「お帰り。長老と出掛けていたんだって?」
「ああ、ちょっとな」
「何かあったの? こんな急に。いつもの買い出しじゃないんでしょ?」
「子供が気にする事じゃない」
 そう理由を突っぱねる父だったが、その仕種はどこかおどけていて、昨日のようなぴりぴりした緊張感や怒気は感じられなかった。不自然な行動だとは思ったものの、あまり深刻な理由ではなかったのだろうと僕は考える事にする。それに何も長老が僕一人にかかずりあっている訳ではない。長老は里全体の事を常に統括する立場なのだ。
 その晩はそのまま何事も無く普段通りに床へついた。父から今日の事を訊ねられると思ったけれどそんな事は無く、また長老から呼び出されるかとも思っていたがそれも無く。どこか拍子抜けした僕は、恵悟との事を相談するよりも普段より強い眠気に負けてしまい、何も打ち明けないまま寝てしまった。
 翌朝、僕はいつも通り起きて朝食を食べて外に出掛けていった。流石に父には咎められるかと思ったけれど、意外にも父は普段通りのままで、唯一つ遅くなる前に帰って来いとだけ言われた。まるで僕と恵悟の事の問題など、すっかり忘れてしまっているかのようである。あまりに事もなげな態度が引っ掛かってならなかったが、触れられないのであればもう少しこれまで通りに遊べるのではないか、そう思い気に留めない事にした。
 念のため、里を出る前に長老の屋敷へ寄る事にした。まだ朝は早いが長老の屋敷では皆、日の出と同時に起き出して仕事を始めるので、訪ねるのに決して早い訳でもない。
 開いた正門を潜り中へ呼び掛ける。
「おはようございます、吉浜の小太郎です」
 やがて現れたのは使用人の一人である顔見知りのおじさんだった。
「やあ、おはよう。何か用かい?」
「長老にお会いしたいのですが、今いらっしゃいますか?」
「長老かい? いや、駄目だね。ちょっと今日は無理だよ」
「えっ、どうしてですか?」
「ちょっとね、お加減が悪いそうなんだ。少し疲れただけとは言っているのだけどね」
「そうですか……」
 長老が病気など聞いた事がない。使用人のおじさんも同じ思いらしく、どこか不安げな表情だった。
「何か急ぎの用だったなら、伝言だけでも伝えるよ?」
「いえ、大丈夫です。また来ます」
 僕は一礼してその場を去った。
 昨日は人間の町へ出掛けたそうだけれど、それの疲れが出たのだろうか? しかし、本当に長老が病気などするのか、どうしても気になった。疑う訳ではないけれど、どうしても素直には受け入れる気になれなかった。
 里を出ていつもの待ち合わせ場所へと急ぐ。まだ日陰には残雪が貯まり、時折意外なぬかるみを踏んでしまう事があったものの、まだ朝の早い時間だからぬかるみの水ごと凍っている土の方が多く、走るには丁度良い固さである。時間はいつもと同じか少し遅いくらいだろうが、これくらいならばとっくに恵悟はやって来ているし、さほど待たせる事も無いだろう。
 最後の坂を一気に下り切り、ようやく待ち合わせ場所の大岩へ到着する。しかし、そこにはまだ恵悟の姿は無かった。
 まだ来ていないのだろうか?
 大岩の上に立ち、いつも恵悟が登って来る道を見下ろしてみるが、やはりそこに人影は無い。今日は少し遅れているのだろうか。だったらあんなに急いで来なくても良かった、そう思い僕は大岩の上に腰を下ろした。
 それからしばらくボーッとしながら恵悟が来るのを待った。いつもは恵悟を待たせてばかりいたが、案外ただ待つのは退屈なものだと思った。以前のように一人で居るのが当たり前だった時はさほど気にもならなかったのだけれど。人間は時計を持ってもっと正確に時間を共有しているけれど、僕も同じように時計を持てばこの退屈も紛れるのではないだろうか。
 恵悟は少し遅れているだけだと思っていたが、その予想に反して恵悟は中々現れなかった。あと少し待てば来るはず、あと少しで山道に姿が見えるはず、そう思うもののそれが事実になる事は無く、ただ時間だけが刻々と過ぎていく。そして恵悟が一向に現れないまま、太陽が真上まで昇ってしまった。
 ふと胸の内に不安が過ぎった。
 恵悟はひょっとしたら、既に都会へ行ってしまったのではないだろうか。だからもう、このまま待っていても無駄ではないのだろうか。
 いや、恵悟が何も告げずにいなくなるはずがない。僕達はまだ友達のはずだ。友達に黙ってそんな事はしない。そう信じたい反面、昨日垣間見てしまった恵悟の僕に対する本音が脳裏を此れ見よがしに行き来する。
 とにかく、何かの事情があって遅れているだけかもしれないのだから、このままもう少し待ってみる事にしよう。たとえ午後からでもまだまだ遊ぶ時間はあるのだから。
 不安を押し退けるように何度も自分にそう言い聞かせながら再び待ち続ける。しかし、恵悟は現れないまま遂には日が暮れてしまった。