BACK

 一体どうして恵悟は来なかったのだろうか。ずっとそればかりを考えながら、僕は家路に着いた。
 恵悟が僕に黙って都会へ行ってしまう事は有り得ないはず。だから、今日はたまたま体調を悪くしたか何かで来れなかっただけに違い。そう無理に解釈する一方で、ただ単純に恵悟は約束を破り黙って都会に戻っただけだという考えを捨て切れない。恵悟は、僕が恵悟を思うように、僕を自分の友達とはもう思っていないから、黙って都会へ行ってしまう事に気が咎めない。それに、既に恵悟は僕との大事な約束を破っている。その約束に比べたら、今日遊ぶ約束など簡単に破れるはずだ。
 多分、頭の中の冷静な部分では、恵悟との関係は既に終わったものだと納得しているのだと思う。これ以上に無い状況証拠も揃い、僕自身も恵悟を決して見過ごす訳にはいかない立場になったのだから、今更兎や角言うつもりはない。けれど、感情の部分ではまだ、この現実を受け入れられていないのだろう。だから、現状にそぐわない態度を取ったり、的外れな希望的観測を持ったりしてしまうのだ。揚げ句の果てには、千載一遇の機会まで自ら棒に振った。
 恵悟は僕の事などもう何とも思っていない。ここまでの仕打ちをされたにも関わらず、感情の部分を納得させきれない自分に腹が立った。もっとあっさりと合理的に気持ちを切り替える事が出来れば、もう恵悟の事で悩まなくて済むのだと思う。ただその場その場で出来る、一族にとっての最善を尽くせば良いだけになる。
 ふと、父はこの事について一体どう考えているのだろうか、そんな疑問が頭に浮かんだ。自分の息子が掟を破り人間へ術の技法を流出させてしまったのだから、僕に対しては強い憤りがあるだろうし、長老を初めとする一族のみんなには申し訳ないと思っているはず。だけど、良く良く思い出してみた今朝の父の振る舞いには、一切そんなものが感じられなかった。
 改めて思うに、僕がした事は本当に里を揺るがすくらいとんでもない事なのである。それがこうも静かに何事も無かったようになっているのは、父か長老が僕を庇っているせいなのだろうか? だけど、庇うだけでは問題は解決しない。事実、僕は恵悟に始末をつけるつもりが、このように逃げられてしまっている。
 僕自身にけじめを付けさせようとしてそれを失敗した今、父や長老は僕の事をどう考えているのだろうか。それを知るためには、まずは自ら失敗を打ち明けて本音で話さなければいけないのかもしれない。
 家に着き、井戸水で足を洗って中に入ると、父が夕食前の晩酌をしていた。台所からは母の夕食を準備する音と香りが漂って来る。久しぶりに家の風景を見たような気分だった。特に父は長老に謹慎を言い渡されてから、ほとんどお酒を飲まなくなっていた。今のような晩酌などしばらくぶりに見る姿だ。
「ただいま」
「おう、帰ったか。遅かったな」
「日が思ったより早く落ちたんだよ。今の時期ならもう少し昼が長いと思ってたんだけど」
 そして普段通りのやり取りを交わしながら、僕も井端へ座って足を崩す。
 夕食も普段通りだった。さもない話題で談笑し、最後に白湯をゆっくり飲む。普段と何一つ変わりがない。けれど、その変わりの無さにどうしても違和感を拭えなかった。僕はこんな安穏としていられる立場では無いはずである。それを、何故父は黙認しているのだろうか。
 夕食を済ませ、母は洗い物をしに台所へ行く。父はまた晩酌を続けている。頬は僅かに赤くなり、ほろ酔い加減という様子だった。お酒の量は普段よりもやや多いだろうか。ここから更に飲むと、今度は寝転がってそのまま眠ってしまう。訊ねるのなら今が良いように思う。
「ねえ、父さん。僕はこのままでいいの?」
「何がだ?」
「僕の事だよ」
 直接的な表現が言えず、非常に分かり難い言い回しになってしまった。けれど父は僕の言いたい事を汲み取ったのか、緩んでいた眼差しがすぐさま緊張を帯びる。
「小太郎、実はな、これからのお前の事は長老と話をして決めたんだ」
「決めたって、何を?」
「小太郎」
 父の何時になく真剣な眼差しが僕を見据える。僕は反射的に背筋を伸ばし真っ向からその視線を受け止めた。
「いいか、あの人間の事はもう忘れろ。初めからいなかった事にするんだ」
「え、忘れろって……」
「いいから、忘れろ。元からいなかったんだ、お前が友達だと勘違いした人間は」
 僕は思わぬ言葉に困惑した。もう一度ちゃんとけじめをつけろと言うのならともかく、元からいなかった事にしろとはどういう事だろうか。あまりにも唐突だし脈絡も無さ過ぎる。今更改めて言うまでもないが、これは忘れて済むような問題では無い。そもそも父の方が僕よりもこの問題の重大さを良く理解していたはずだ。
 まるで臭いものに蓋をするような、意味の無い事をしてどうなるのだろう。果たしてこれは、父の独断なのか、それとも長老の合意済みなのか。あまりに納得の行かない答えに思わずそれを問いただそうとするものの、父の緊迫した表情を前に声は出せなくて、ただ一つだけ頷いて返した。無論、頷きはしても納得はしていない。むしろ、この方向転換とも呼んでもいい変わり身に、何かきな臭ささえ感じる。
 何か僕に隠しているのではないだろうか? そう思い父の目の色を窺ってみるものの、その奥から何か手掛かりを引き出すような事は出来なかった。