BACK

 季節が春に移り上着が必要にならなくなると、山の景色は一気に色合いが華やかになる。足元や頭上へ目を凝らせば何かしらの花があり、それを捜し集めるだけで退屈はしなかった。
 昼を過ぎ、川で捕ったイワナを焼いて少し遅い昼食にする。春になって食べるものが増えたせいか、最近は特に食欲が増えたように思う。もう少し季節が変わってくれば、野草以外にも食べられる果実がなってくるから、今からそれが待ち遠しくなってきた。
 少し前まで、今日一日を一人で遊ぶにはどうしたらいいのだろう、と思い悩んでいたのが嘘のようである。一日かけて山を周り、色々な何かを見つけては一喜一憂し、空いた時間に術の教本を読むような生活を続けている。ただこれだけのことで、毎日が全く退屈しないのだ。何が退屈だと感じていたのか、今ではもうそれすら思い出せない。小さい時にかかる熱病のようなもので、一度さめてしまえば何とも思わなくなるのだろう。退屈しなければ充実しているという訳でもないけれど、ともかく今の生活に不満は無かった。欲を言えば、火を起こす時にもう少し楽が出来れば、という程度だろう。
 日も傾きかけてきた頃、そろそろ家に帰ろうと僕は帰り支度を始めた。支度と言っても山で採った物を整理する程度で、今日はゴギョウとハコベラが少しだけだ。イワナは食べてしまった分で全部である。
 明日はもっと麓近くで野草を採ろうか、今日はあまり種類が見つけられなかった、などと考えながら野草についた虫を取り除いていた、そんな時だった。ふと、後ろの方から人の気配がして、誰か来たのかと僕はおもむろに顔を上げて振り返る。するとそこにいたのは長老だった。
「まだ帰らぬのか? 慣れてはいても夜道は危険じゃぞ」
「えっ、あ、その、今帰るところでした」
 まさか里の外で顔を合わすなど予想もしていなくて、僕は酷く慌ててしまった。一度叱られているせいもあり、疚しい事は無いにも関わらず、口調が疚しげにしどろもどろになってしまう。
「しばらく顔を見せに来ぬが、元気そうじゃな」
「は、はい」
「そう畏まらんでも良いぞ。説教しに来た訳ではないからのう」
 長老は優しげに目を細めた。しかし、里で一番偉い人を前にして緊張しない訳にはいかない。長老と話す機会は増えたけれど、気安い間柄という訳ではないのだ。
 そして、僕は長老と一緒に里へ帰る事になった。何となく、そういう成り行きだった。どうしてこんな所に突然現れたのだろうか、普段長老は滅多に里の外には出ないはずなのに。この状況を流石に疑問に思い、何か作為的な物を感じつつも、それを真っ向から口に出来るはずもなく、僕はただ何も知らない子供の顔という体で家路に着いた。
「村上恵悟の事じゃが、あれから音沙汰はあるか?」
 道中、不意に長老がそんな事を訊ねてきた。しばらく耳にしていなかったその名前に、多少構えていたはずだったが思わずどきりと胸を高鳴らせてしまう。あえて口にも頭に思い浮かべる事もしないでおいたそれを真っ向から言われるのは、治りかけの傷のかさぶたを無理矢理剥がされるような気分だった。
「いえ、特には」
「それでどうするつもりじゃ?」
「別にどうにも。父が忘れた方が良いと言っておりますので、それに従うつもりです」
 そうか、と長老は一つ溜息混じりに頷いた。何となくその仕種に、仕方がない、と言いたげなものを感じた気がした。言葉通り、それが最も問題の無い選択だからだろうか。けれど、僕がそういう無難な選択をした事を残念に思っているようにも解釈が出来る。もしそうならば、少し心中は穏やかでは無くなってくる。元々僕をそのように従わせようとしたのは、長老達の方なのだから。
「小太郎や。今度の事ではお前には随分悲しい思いをさせてしまったのう。もう少しわしがきちんとしてやれれば良かったんじゃが」
「いえ、そんな事は……」
 それは自分の起こした問題だから、悪いのは自分自身である。そう言いかけたが、一瞬だけ恨み言のようなものが頭を過ぎった。初めからあんな掟がなければ、もしくは黙認だけしてくれれば、こんなに事はこじれなかったはずなのに。それは逆恨みにもなっていない言い分だけれど、やはり心のどこかでまだ長老の処断に納得のいかないものがあるのだろう。僕はそれが態度に出ないように、何とか自分の奥深い所へ飲み込んだ。
「本当に、もう村上恵悟の事は良いのか? 今からでも何かしてやれる事があれば遠慮は要らぬぞ」
「あまり考えないようにしていますから。今まで通りの生活に戻るだけです」
「そうか、ならば良いんじゃ」
 果たして本当に良いものか。僕は一つだけ疑問だった。父が忘れれば良いと言うし、長老はそれで良いと言う。僕もそうしてしまう方がいっそ楽だから、何も口答えせずにここの所ずっと以前のような一人遊びに生活を戻していた。もう恵悟と会う事はないかもしれない。それはそれで良いかもしれないが、恵悟は僕から手に入れた一族の術を持っている。果たしてこれはこのままで良いのだろうか。子供心に、何かしら手は打たないといけないのではと思う。僕が思いつくのだから、当然長老もそんな事は承知しているはずである。けれど、もしも万が一、本当に忘れているのだとしたら。ここで僕が上申するのは、かえって恵悟に危害を及ぼす事になるかもしれない。それは、たとえあんな終わり方をしたとしても友達を売る事のように思えて、僕は嫌だ。
「ところで小太郎や。梅雨に入る前にまた人間の町へ買い出しに行く事になるのじゃが。お主、試しについていってみるか?」
「僕が、ですか?」
「そうじゃ。無論、今回限りの特別じゃがの。前々から人間の町に興味があったのじゃろう?」
 たとえ一回限りでも、子供が長老から許しを得て人間の町へ出掛けるなんて、今まで一度も聞いた事が無い。とんでもなく異例の事だ。
 人間の町への漠然とした憧れや興味は未だに無くなっていない。長老の誘いはとても魅力的に聞こえて、僕は喜びと興奮が一度に湧き出て足元が覚束無くなりそうだった。しかし、その特別な措置があまりに不自然だと気づいた瞬間、その興奮も一気に冷めてしまった。これは、僕が落ち込んでいると思って機嫌を取ろうとしているのだ。その考えから、この特別な誘いも急に馬鹿馬鹿しくなってきて、火に水を掛けたように興味が無くなってしまった。
「いえ、別にいいです。大人でも行きたくても行けない人がいるのに、子供の僕が特別に許して貰って行くのはあまり良くない事だと思いますから」
「子供がそんな体面なんぞ気にする必要はなかろうに」
「でもせっかくなので、行かない代わりに欲しい物があります」
「何じゃ?」
「お菓子なんですけど……チョコレートという物です」
「はて、聞いた事があるのう。まあ、菓子ぐらいならよかろうが。本当にいいのか? お主とて、将来正式な許しを得られるようになるとは限らんのじゃぞ?」
「構いません。僕は、ちゃんと勉強してから行こうと思いますので」
「なるほどのう。ふっ、その自信家ぶりは、死んだ五郎太にそっくりじゃわ」
 そうさもおかしそうに長老は笑い、そして町の事についてはもう言わなくなった。僕がチョコレートを貰うという事で納得したようである。
 だけど、このチョコレートもきっと、僕の機嫌取りなのだろう。そんな事を思い、ふとそれが何て卑しい考えなんだと恥ずかしくなり、それからしばらくの間自分に対しての嫌悪感が続いた。