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 その日は昼過ぎには早々と家に帰った。昼食に魚を取ろうとしたものの小さい魚が一匹しか取れず、他にすぐ食べられるようなものも見つけられなかったので、非常にひもじかった事がある。それと、昼過ぎから急に雨が降り出して寒くてたまらなくなった。そして今日は何よりも、梅雨前に行く人間の町への買い出しから戻って来る日でもある。そんな時に、雨に濡れながら長老の屋敷へほうほうのていで雪崩れ込むのも格好が悪い。雨に打たれるよりも、雨をかわすために早めに移動したと見せる方が様になるというものだ。
 里に着くと、まだ時間帯も早いせいか人通りは普段とあまり変わりがなかった。けれど長老の屋敷からは既に炊事の煙があがっていて、どうやら夜の宴会の準備は今からもう始まっているようである。今日取れたのはキノコと野草が少しだけ、それを炊事場へ持って行き、いつものように離れへ移ってそこで時間を潰す事にする。離れではいつもの老人二人が縁側で碁を打っていた。子供達はまだどこかで遊んでいるらしく、姿は一人も見当たらない。
 しばし碁を眺めていたが碁は分からないのですぐに飽き、自分でお茶を入れて畳に座りながら何となく天井を眺めた。やがて昼食が足りなくて小腹が空いていた事を思い出し、何かお茶菓子でもないかと辺りを探す。見つかったのは正月の餅の余りで作った古いあられだけで、一口食べてみたもののあまり美味しくはなく、諦めて少し長いが夕飯まで待つ事にした。
 畳で寝転がりながらうとうとしている内に日は傾いて、やがて小さな子供達が喧しくなだれ込んで来た。こう騒がれてはうたた寝も出来ず、僕は起きて一度厠に行ってから再びお茶を沸かした。縁側の老人達は相変わらず碁を打っていて、盤上を覗いてみると昼間見た時よりもさほど大きな展開はなかった。随分と気の長い勝負をしているようである。
 やがて日が落ちた頃、また母屋の方から惣兄ちゃんがやってきた。時折周囲を見回す所を見ると、どうやらまた準備から抜け出してきたようである。
「小太郎、喉が渇いたからお茶入れて頂戴よ」
「いいけどさ、また抜け出して来たの?」
「だってさ、今回は色々と買うものが多かったせいで、いつもより沢山荷物運んで来たんだよ? 若いから平気だって、幾ら若くても動けば疲れるんだよな」
「買い出し組では惣兄ちゃんが一番若いからね。重い荷物が回ってくるのは仕方ないよ」
「早く小太郎が大きくならないかな。小太郎なら絶対長老の許しも出るだろうしさ。そうしたら、俺が運ばされてたのは全部持たせてやるのに」
「若者二人になっても、年長が持つ量が減るだけだよ」
 僕達は畳に向い合って足を伸ばしながら、お茶を飲み談笑を交わした。惣兄ちゃんは早速今回人間の町へ行って来た時の事を話してくれて、いつもの事だけれど、それは里の中では知り得ないような奇想天外な事だったり、想像力が及ばず漠然としか伝わらないのに推測で補完出来てわくわくしたり、小一時間続けられても全く退屈する事は無かった。里の中で人間の町について話せる一番身近な人は惣兄ちゃんだと思う。父も人間の町へ買い出しに出るけれど、いつも話の中身が偏っていてあまり面白くないし、今は負い目も多少あるから気軽に話は出来ないのだ。
 ふとそんな惣兄ちゃんの話を聞く中で、一つ思った事がある。僕と恵悟の事を、惣兄ちゃんはどこまで知っているのか、という事だ。
 以前、惣兄ちゃんは長老の命令で人間の雑誌を集めた事がある。僕が長老に急遽呼び出された席の事も知っているはずだ。だから、少なくとも僕と長老との間で何かしら起こったぐらいは知っているはずである。昔からざっくばらんに何でも話して来た間柄だから、もしもその時の事を気に留めていれば既に訊いてきているはずである。それが無いという事は、特に何とも思っていないのか気を使っているのか、もしくは長老に口止めされているかだ。何にせよ、わざわざこちらから訊くのもややこしくなるだけなので、あえてその事には気付かないふりをしているのが良いのだろうが。
「そうそう、ところでさ。長老と何かあったのか?」
 不意にそんな事を訊ねてくる惣兄ちゃん。今まさに関係する事を考えていただけに、この不意打ちにはどきりと心臓が高鳴る。
「何かって何が?」
「いや、ほら。実はこれ、こっそり持ってってやれって言われてるんだよ」
 そう言って惣兄ちゃんが取り出してみせたのは、手の平より少し大きいくらいの新聞の包みだった。特に身に覚えが無かったものの、とりあえず包みを開けて中を見てみる。するとそこには、見覚えのある包装のお菓子、チョコレートが三つ重なっていた。
 ああ、なるほど。これはあの時の約束のだ。
 以前に交わしたあの約束を今になって思い出し納得する。長老は忘れずにいておいてくれたらしい。
「おお、なんだよなんだよ。長老の御墨付きか? お前どうやったんだよ、コツ教えろよ」
「そんなんじゃないよ」
 ともかく、チョコレートはせっかくなので有り難く貰っておく。そして一時に食べず、少しずつ食べる事にしよう。次は何時食べられるのか分からないのだから。
 すぐ近くで騒いでいる子供達に見つかっては面倒なので、あまり長々と眺める事はせずにすぐ新聞紙に包み直した。しかし、その時だった。
「ん?」
 ふと目に入ったのは、新聞の切れ端にあった見覚えのある単語。皺だらけになっていて文字も歪んでいるから見間違えたかと思い、もう一度今度はよくよく注視する。すると、今度は見間違えて直感したよりも更にはっきりとした文面を読む事になってしまった。
 地元児童意識不明ノ重体。そして、その後へ続く村上某の名前。
 これは一体どういう事なのか。ここに書かれているのはあの恵悟の事なのか。あまりに唐突な事で一瞬頭の中が真っ白になってしまった。俄に居ても立ってもいられなくなるが、ちゃんと文面も読んでいないのではどうにも判断が付かない。それよりも、今ここで惣兄ちゃんの居る前で、こんな記事に慌てふためいて良いものか。その思いが辛うじて僕に自制心を持たせてくれた。
「ん、何かしたか?」
「いや、何でもないよ。どこに隠そうか考えてただけ」
「そうか、羨ましい話だな。さて、そろそろ俺は母屋に戻るけどさ、後でちょっとだけわけてくれよ。俺、結構人間の菓子好きなんだ」
「いいけど、ちょっとだけだよ」
「念を押すなよ、けち臭い」
 そう笑いながら惣兄ちゃんは母屋の方へ戻っていった。
 さて、それではこの記事を改めて確かめてみなければ。
 僕は一度周囲を見回し、誰もこちらに意識が向いていない事を確認すると、今包んだばかりの新聞紙を再度広げて、読み易いようにしっかりと皺を伸ばした。