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 目を覚ましたのは、まだ日も昇らない早朝だった。父も母もまだ眠っており、普段なら間違いなく二度寝する時間である。僕は息を潜めてそっと寝床を出ると、音を立てぬよう慎重に家から抜け出した。
 早朝の里の中はすっかり静まり返っていて、夜露で足元が湿っていた。空気は日中とは違って刺すように冷たく、薄着でいる自分には随分と応える。
 まるで人気の無い中、僕は真っ直ぐに長老の屋敷へと向かった。まだ自分の中では考えがまとまりきれていない部分があったけれど、少なくとも長老の屋敷へ向かう事だけははっきりとしていて、それについては迷いは無かった。
 程なく長老の屋敷に着いたが、正門はぴったりと閉ざされていて開く気配は無かった。もちろん、この時間には屋敷の使用人はまだ寝ているはずだから、開けるにはまずここから大声を出して起こさなければならない。
 裏口に回り勝手口を確かめる。勝手口も閉じてはいたが鍵はかかっておらず、ちょっと引いただけで簡単に開いた。僕は音を出さないようゆっくり静かに戸を引いて開け、中に入ってからまた静かに戸を閉じた。
 早朝に長老の屋敷へ入ったのは初めての事である。やはり光の加減の違いで新鮮な景観には思ったが、それもすぐに気にならなくなった。ここにはそんな理由で忍び込んで来た訳ではないのだ。
 長老の屋敷は何度か出入りしており、昨夜も宴会の騒ぎに乗じてある程度間取りを再確認している。薄暗いだけでなく普段とは違う所から入り込んではいるが、自分の現在地を見失う事はなかった。
 離れの脇を通り、正面口を横切った後、中庭へと足を踏み入れる。そこを通ってすぐの所が、長老の寝所である。ここには普段庭師ぐらいしか足を踏み入れさせないため、忍び込んでいる自分には安全な通路である。たまたま早起きしたかもしれない使用人と遭遇する事もないのだ。
 背の高い庭石を踏み越え、茂みに身を隠しながら長老の寝所を目指して進む。大それた事をしている割には不思議と冷静で、恐さも緊張感もほとんど感じなかった。日和見な性格だと思っている自分のそんな一面は、こんな機会が無ければ一生気付く事はなかっただろう。
 中庭には大きな池があって、そこに何匹か鯉が泳いでいる。長老の寝所へ行くには、その池を渡らなくてはいけない。池には石の橋がかけられているけれど、そこを渡っている間は身を隠すものがない。誰とも遭遇する心配は無いとは言っても、少し不安になる場所だ。かと言って、池の中を横切る訳にはいかない。とにかく素早く渡れば問題は無いだろうと、僕は橋の端へと向かう。
 しかし、その時だった。橋を渡ろうとした直後、その先に見知った姿を見つけてしまった。それは長老だった。石橋の上に立ち、何するまでもなくじっと水面を見つめている。相変わらず胸中の窺い知れない表情に、僕は思わず潜めていた息を飲んだ。
「小太郎、隠れなくても良いぞ」
 そして、長老は水面を見つめたまま僕を呼んだ。身を潜めていたと思っていたけれど、既に見つかっていたようである。いや、そもそも元から見透かされていたのかもしれない。僕は一呼吸置いて、ゆっくりと茂みから姿を表した。
「何用かの、こんな朝早く」
「訊きたい事があります」
「さて、それほど急がねばならぬ事かのう」
「いえ。ただ、誰にも知られないように聞きたかっただけです」
 そうか、と長老は呟き、ゆっくりこちらに向き直った。けれど、視線は僕の方を向いていなかった。意図的に外しているようにも見える。
「それで、何を聞きたい?」
「御存知ではないのですか? だから、こうして今ここにいらっしゃる」
「年寄りは朝が早いだけよ。それに物分かりも悪い。じゃから、はっきりと言って貰わねば答えようがない」
 取り様によっては威圧的にすら聞こえる長老の言葉。けれど僕は怯まず、むしろ一歩前へ自ら踏み出た。
「恵悟に大怪我をさせましたね」
 その問いに長老は即答しなかった。けれど、即答しないという事は、その事を知っているし関わってもいると答えたのも同然である。疚しい事が無ければ、すぐ否定するはずなのだ。
「僕が掟に従えなかったから、代わりにしたという事なのですか? ならば、掟を破った僕が真っ先に罰を受けなければならないはずです。何故このような事を」
 長老はそれでも答えなかった。ただじっと押し黙ったまま、そっと目だけを伏せる。
「それとも、殺すつもりだったのですか?」
 その仕種が、如何にも後ろめたそうに思えた。僕をどうやって言いくるめようか考えている、そう思うと騙されてなるものかと語気を強めざるを得なかった。
 沈黙を続ける長老に、どうして今まで怖い人だと思っていたのだろうと疑問を持つようになった。長老は一族の中で最も偉く、その命令には誰も逆らえない。僕が何を訴えようとも、本当なら歯牙にもかけないはずなのだ。何故あっさりと一蹴したりせず、言われるがままになっているのか。それは疑問ではあったけれど、深く詮索しようとは思わなかった。
「小太郎や」
 しばらくした後、長老はおもむろに目を開くと、ゆっくりと僕の方を見据えた。長老は今日初めて僕と視線を合わせてきた。いよいよ何か答えるのだろう、僕は自然と気構えを整える。
 そして、
「お主はすっかり変わってしもうたのう」
 振り絞るように発した長老の声は、思わず息を飲んでしまうほど悲しげだった。