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 目を覚まして最初に見たのは、薄茶色の木で張られた天井だった。
 自分の体の感覚を確かめようと右手を動かす。しかし何か重いものを乗せられているかのように、酷く持ち上げ難かった。そこで初めて、自分が布団の中に居ることに気がついた。
 ゆっくりと体を起こし、上半身分の布団半分を折り畳む。部屋はまだ薄暗く気温も肌寒かった。左手には薄いカーテンのかあkった窓と平机、正面には二つ分の押し入れ、右手は襖になっている。
 襖の隣には誰かがいるのか、くぐもった物音が聞こえてくる。人の話し声もするが、どういう人が何人いるのかまでは分からなかった。同じように、外は雨らしく、窓ガラスがしきりに外からがたがたと揺らされている音も聞こえてくる。肌寒いのは暗い時間帯だからだけでなく、雨の降る天気のせいもあるのだろう。そんな事を思った瞬間、突然くしゃみを一つしてしまった。
 襖の外から人の気配が動くような音が聞こえてきた。畳を踏む足音が一つ二つとこちらへ近付いて来る。僕は反射的に緊張した。まだここがどこで自分がどうなったのか、それが分からない内は一人で居たかったのだ。けれど音の主はそんな遠慮をするはずもなく、やがて襖に手がかかった音がするのと同時に、僕の緊張感は最高潮に達する。
「あら、起きた?」
 そう言って襖の間から顔を覗かせたのは若い女性だった。心配そうな表情では無かったが、やたら明るい雰囲気のある人に感じる。その証拠かは分からないが、彼女の化粧や服装の趣味は随分派手に見えた。
「ねえ、すみちゃん。この子、起きたわよ」
 彼女は振り返り奥へそう叫ぶ。するとそこから朴訥な返事が一つ返って来た。もう一人、ここにはいるらしい。ただ、低い声の返事に少し驚き少し不安を感じる。
「気分はどう? どこか痛くない?」
 返事の主が来る前に、彼女は僕の傍らへやって来て額に手を重ねた。部屋が肌寒いのに、彼女の手はそれよりも更にひんやりと冷たかった。思わず背筋から痺れのようなものが駆け上がり、肩が数回震える。
「おう、起きたか。どうだ具合は?」
 続いて部屋に入って来たのは、がっしりとした体格の青年だった。浅黒く日焼けした肌と角刈りが印象的で、彼女とは趣味がまるで正反対に見えた。背丈も広い肩幅に見合うほどあるらしく、ただでさえ座っている僕は、立っている彼を見上げるのに随分と首を後ろへ傾けなければならなかった。
「あっ……あ、あのっ……あっ」
「そんな慌てなくていいぞ。どうだ、腹は減ってるか? 朝飯を用意した所だから、まず食って落ち着くといい」
 彼は白い歯を見せながら微笑んだ。顔立ちは厳めしくて何となく怖そうな印象だが、人柄まで同じではない雰囲気である。
 確かに自分でもうまく喋れないほど混乱している事は分かった。思った事も話せないようでは、まず落ち着いた方がいい。僕は素直に頷いた。
「俺は住吉だ、ス、ミ、ヨ、シ。分かるか?」
「私はドロシーよ。よろしくね、ボク」
 二人に手を借りながら布団を出て、隣の部屋へ移動する。そこは若干手広い印象のある居間だった。畳の数を数えると調度八つ。多分八畳間という事になるのだろう。調度品と呼べるものは少なく、それがより広さを際立たせた。テレビとその両隣の棚には、写真と貝殻や魚の歯らしいものが幾つも並んでいた。その上の天井近くの壁には魚の版画が二枚、額入りで飾られている。写真に写っているのがどれも船の中や港のものばかりで、多分彼はそういう仕事をしているのだろうと思った。しかし、よくよく見てみると時折ファンシーな小物がちらほらと点在している。これは多分彼女が置いたものなのだろう。
 居間の真ん中には薄手の掛け布団を残したコタツテーブルが、そしてその上に彼は茶碗を並べていった。言われるがままテーブルの一辺に腰を下ろし、用意された食卓を眺める。やはり彼が漁師だからだろうか、真ん中の大皿には大きな魚の塩焼きがあった。
「日本の食い物は初めてか?」
 御飯を盛った茶碗と箸を渡しながら訊ねられる。綺麗な真っ白い御飯は同じ白い湯気を立たせ、不思議と食欲をそそられた。
「あ、いえ……多分。でも、大丈夫だと思う……」
 受け取りながら自信なさ気にそう答える。すると、二人は目を瞬かせながら顔を見合わせた。
「ボクは日本に住んでたの?」
「え? いや、分からないです」
「しかし、随分日本語がうめえな。相当長く住んでないと、そこまでうまくならねえもんだが」
「私は五年だけどねー。不法入国時代も含めるけど」
 僕には良く状況が飲み込めなかった。二人の会話からすると、僕が日本語を話せる事に驚いたようである。しかし、それのどこに驚く理由があるというのか。ただただ首を傾げるしかなかった。
「ほら、ちょっと見てごらん」
 不意に彼女が棚から鏡を持ち出して僕の前に出してきた。突然向けられた鏡を僕はまじまじと覗き込む。
「これが……?」
 自分の姿を初めて見る。そんな印象だった。鏡に写っていたのは、やけにおどおどとした弱気な幼い顔だった。その髪は真っ直ぐな金髪、肌は雪のような白、目は左右色の違う金目銀目である。鏡の中のその顔は確かに自分が動かすのと左右対象で動いた。間違い無く自分の顔である。だが、どうしても自分だという実感が沸かなかった。
「それにね、ほら。ここ触ってみて」
 そう彼女に背中の辺りを撫でられる。言われるがままそこへ手を伸ばすと、薄手のシャツ越しに奇妙な手触りのものがあった。
「これ……羽根……?」
「まあ、そうだな。ほれ、冷める前に食べちまうぞ」
 彼の合図で朝食が始まった。二人がするのと同じように、僕も最初に手を合わせて、いただきます、と挨拶をする。その語源は良く分からなかったが、何となく自然なもののように思えた。
「ねえ、すみちゃん。この魚は何の魚?」
「これはハマチだ」
「なんで丸い形してるの?」
「カマの部分だからな。首の辺りから輪切りにしたもんだ」
「へえ。日本人って変な所食べるのね。あ、おいしい」
 彼女が美味しそうに箸を伸ばすのを見て、自分も同じようにそれへ続いた。箸で軽く挟むと身は簡単に解れて小さく湯気を立てた。周りの皮も巻き込んで頬張ると、魚の脂の味と調度良い塩気で実に美味しかった。
「そういや箸で良かったかって今頃思ったんだが、使い方もうまいもんだな」
「本当。私、未だにあんまりうまく使えないのに」
 二人はまた僕の方を見て不思議そうな顔をした。僕が箸を使えるのはとても不思議な事らしい。つまり、鏡で見たああいう顔立ちの人間は箸の文化圏に普通はいないという事なのだろう。
 漠然としていた不安が急に膨れ上がり、僕は思わず訊ねてみた。
「僕は一体何なのでしょうか? どうしてここに?」
 すると二人は一度顔を見合わせ何か目配せをした後、やがて彼の方が咳払いを一つして向き直った。
「お前さんを拾ったのは昨日の事でな。仕事帰りにたまたま通り掛かった海での事なんだが」
「拾った?」
「如何にも沖から流れ着いたって状況でな。そこを拾って連れて来た訳だ」
「そうですか……。では、命の恩人になる訳ですね。ありがとうございます」
「まあ固くなんなって。海での事は俺の領分だからよ。で、お前さんの身上って事なんだが。何か思い出せるか?」
 そう問われ、僕はしばらく自分の頭の中を駆け巡ってみる。しかし、そこは驚くほど空っぽで手応えが無かった。正直、この感覚には驚きを隠せなかった。こんなにも自分という存在をはっきりと認識しているというのに、自分についての情報が全くと言って良いほど頭の中には入っていないのだ。思い出せる出せない以前に、明らかに空っぽであると自覚してしまうと、僕はどうして良いのか分からずうろたえてしまった。すると、そんな僕を見かねたのか、彼女が手を伸ばして来てよしよしと頭を撫でられた。
「思い出せないんなら無理しなくていいぞ。段々とそういう事は出て来るもんさ。それに、大方は想像がつくからな、この御時世じゃ」
「御時世?」
「いわゆる亡命者って奴だ」
「亡命者?」
「政治目的ってのが頭につくのが普通だけど、ちょいと日本はその辺変わっててな。いわゆる宗教難民って奴か」
 難民という言葉の意味を僕は良く理解している訳ではなかった。ただ、その言葉の響きが何となく、普通の人よりも苦しい状況に晒されている人のように感じ取れた。僕はその、普通よりも苦しい立場の存在らしい。けれど。記憶も何も無い今ではあまり自覚には薄かった。
「ところで、お前さんは名前ぐらいは覚えてるのか?」
 確かに呼び名が無ければ二人とも困るだろう。そう思い僕は再び首を傾げながら頭の中を駆け巡る。普通、どんな事を忘れていても自分の名前ぐらいは覚えているものだ。だから思い出さなければいけない。そんな焦りもあった。
「覚えてないなら、私が決めてあげる。そうねえ、すみちゃんと私の子供なら、すみしー? それともドロ吉の方がいいかしら?」
「真面目な話してんだ。茶化すな」
 彼女が彼に軽く釘を刺され、小さく舌を出しながらごめんなさいと謝る。だが、もしも僕が名前を思い出せなければ、本当に今のどちらかになるのではないかと危惧をする。そんな事を思っていた時だった。空っぽの頭の中を駆け巡っていると、不意に足元に何か躓いたような感触がし、はっと息を飲んだ。そう、空っぽだと思っていた頭の中に、躓けるものがあったのだ。
「あ、あの……! 僕の名前なのですが。クリステル……だと思います」