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 生まれて初めて書くのかどうかも分からない、それが今日のこの日記である。
 これから毎日、出来るだけ書き続けていこうと思う。日記を蓄積しても無くした記憶には繋がらないかもしれないけれど、自分の足跡が何も無くて不安なままいるよりはずっと良いと思う。
 これからは無くした記憶を取り戻す事を第一にしたいと思う。住吉は異族ばかりが通う学校へ行く事を勧めてくれたけれど、それはまだ早い。学校は先へ進む人のためのものであって、過去の無い僕が先へ進もうとしても、すぐに空っぽの過去に後ろ髪を引かれてしまう気がするのだ。



 今朝は起きても誰もいなかった。住吉は朝の早い時間に新築地へ行き、ドロシーは来ていないようだった。ドロシーはいつも騒がしいからいない方が静かで落ち着けると思っていたけれど、いざ居ないとなると案外寂しいものである。明日はドロシーは来てくれるだろうか? そんな小さい不安を覚えながら、寂しさを紛らわすためにテレビの音量を上げる。
 朝食を食べて食器を台所へ片付けると、僕は服を着替えて戸締りをし外へと出かけた。向かう先は、地下鉄で十五分ほどの所にある図書館である。
 この図書館には日本で発行された新聞やテレビのニュース映像がデジタル資料として保管されていて、誰でも自由にそれを閲覧出来るというサービスがある。僕の目的はそれである。人外管理局では僕の情報は見つからなかったけれど、過去の記事に何か手がかりがあるのではないかと思ったのだ。新聞やニュースに取り上げられはしていないとは思うけれど、もしかすると記憶を取り戻すきっかけがあるかもしれない。それが僕の期待だ。
 今日の東京は少し肌寒かった。テレビの天気予報では、平年をかなり下回る十度前後になると言っていた。けれど、その直後に地球温暖化についてコメンテーターが解説を始めたので、僕は今一つ納得が出来なかった。帰ったら住吉に訊いてみようと思う。
 アパートから最寄り駅を目指して歩道を歩く。昨日、住吉に書いて貰った地図を便りに駅の方へ向かうのだけど、一つ角に出くわすたびに道を間違っていないか不安になり、何度もメモを見直していたため、メモはあっという間にくしゃくしゃになってしまった。
 調度通勤通学の時間帯であるため、沢山の人が道を行き交っていた。異族である自分は目立つのではないかと不安に思い、持って来た帽子を深く被って俯き加減に歩く。けれど、僕の方を露骨な興味本位で見るような人はいなかった。良く周囲を観察すると異族なのは僕だけではなくて、その誰もが当たり前のように道を歩いている。僕が気にし過ぎているだけかもしれない。
 駅に到着すると、僕は券売機で目的地までの切符を買い、それで改札口を潜った。駅の構内はそれほど人が溢れている訳でも無く、随分と落ち着いた雰囲気だった。けれど、電車を待って立っていたホームの反対側に電車が止まり、その中に恐ろしいほど人が敷き詰められている光景を見てしまい、僕もこんな電車に乗り込むのかと恐ろしくなってしまった。けれど、実際にこちらのホームにやって来た電車は驚くほどがらんと空いていて、僕は拍子抜けする半面、安堵の溜息をついていた。
 駅を降りてからは図書館のパンフレットを広げ、その地図を頼りに歩き始めた。地図は簡略的なイラストだったけれど、駅を出てからの道程がほぼ真っ直ぐだったため、迷ってしまいそうな不安は無かった。
 道を半分も歩いた所で、前方に大きなコンクリートの灰色い建物が見えてきた。パンフレットにも写真が載っているため、それがすぐに目的地と分かり俄かに足を早めた。何と無く、一人で目的の所へ辿り着けたのが嬉しかった。
 図書館の入口は二階にあり、僕はまず歩道脇から正面玄関へ続く長くて広い階段を駆け登った。一階のスペースは駐車場になっていて、階段脇から下を見下ろすと舗装された道が階段の下へ続いているのが見えた。
 ガラス張りで中が良く見える正面のドアは見た目よりもずっと重くて、僕は両手で踏ん張らないと開ける事が出来なかった。玄関では靴から備え付けのスリッパに履き変えなければならず、靴を下駄箱へ入れて子供用の緑色のスリッパに変えた。けれど、僕の足がよほど小さいのかしっかりとスリッパに収まらず、僕は歩くたびにペタンペタンと音を立てながら中に入っていった。
 玄関を抜けて一番最初に見えたのは、立ったまま見下ろせるように斜めに備え付けられた案内板だった。出入口から館内の間取りと、それぞれの蔵書の種類やサービスが細かく印されている。また、別の階の事も右上にまとめてあって、すぐにどこへ行けばいいのかが分かった。
 僕の目的は、過去のニュースや新聞が見られる所である。それらしい名前を探してみると、すぐに電子史書閲覧室という文字を見つける事が出来た。それは一つ上の三階へあり、僕は階段の場所を確認して上へと上がった。階段を登り終えると、また同じ形をした案内板があった。そこで閲覧室の場所を確認して向かう。
 閲覧室は周囲と隔離された区画にあった。そこだけがパーティションで出入口を一つに制限されて、そのすぐ隣には受付をするらしい男の人がいた。本棚に手を伸ばして取るぐらいの気軽さだと思っていた僕は、意外な敷居の高さに構えてしまう。
「何か探しているのかな?」
 僕に気付いた男の人は、そう優しげな口調で訊ねて来た。
「あ、あの、子供でも入っていいですか?」
「構わないけれど、騒いだりしちゃ駄目だよ。まあ、そんな事言っても普段は滅多に人は来ないんだけどね」
 そう笑いながら、男の人は帳簿とボールペンを差し出した。その時に男の人が区立図書館と描かれた腕章をしているのが見えた。この人は図書員と呼ぶ事に決める。
「ここに名前と入った時間を書いてね。帰る時はまたここに時間を書くんだよ」
 図書員の言われた通り、帳簿に名前と今の時刻、午前九時半を書き込んだ。僕の名前より上の方には名前は四つしか無く、ここより前のページも何枚もなさそうだった。本当にあまり利用する人がいない施設らしい。
「クリステル君、ね。随分字が上手だね。日本に来て長いの?」
「いえ、その、まだ、そんなでもないです」
「そうなんだ。今日は自由研究か何かかな?」
「はい。それで昔の記事を読みたくて」
「それじゃあ頑張らないとね。部屋は入ってすぐ並んでいるから、好きな所を使っていいよ」
 そう促されて僕は逃げるように中へ入っていった。早速一目では数え切れないほどドアが並んでいるのが見えたけれど、ほとんど選びもせずに一番近かった部屋へ飛び込んだ。
 突然訊ねられ慌ててしまったせいか、嘘と本当と混ぜこぜにして答えてしまった。何と無く何から何まで本当の事を答えると、同情を買ったりあれこれ詮索されたり、面倒なことになってしまうと思ったせいもある。だが悪い人には見えないから、悪い事をしてしまったと思った。
 部屋は六畳ほどの縦長の狭い個室で、奥には部屋の幅と同じくらいの机が備え付けられていた。机の上にあるのは、大きな写真立てのようなディスプレイ。四隅の縁をなぞるとすぐにスイッチが見つかった。電源を入れると色々なタイトルの踊るメニューが表示された。色々な検索や絞り込みが出来るらしかったけれど、特に確たるもののない僕にはどれをやればいいのか分からなくて、早速首を傾げてしまった。
 椅子に座り、傍らに日記帳を広げて、画面をじっと睨み付ける。ジャンル、新聞社、国内海外、地方、実に様々な括りがある。どれが一体自分の求めているものに近いのか。そうしばらく考え込み、やがて時間が勿体なくなってひとまず去年の今日の記事を読む事にした。画面の操作方法は簡単で、調べたい検索方法をタッチすると画面が切り替わるので、後は年月日を入れるだけである。あっという間にその日に関係した記事のヘッドラインが画面に表示された。
 まず目に飛び込んで来たのは、人外異形基本法の文字だった。明らかに異族の関係する事件ではないのか。僕はすぐに詳細を開いてみた。
 その記事は、人外異形基本法が施行されて初の異族の逮捕者が出た、というものだった。コンビニ強盗で怪我人が多数出たそうだ。初めから金銭が目的で日本へやってきたらしい。この事件を受けて野党が審議が不十分だったと与党を批判したものの、法案は野党の意見を多く取り入れた経緯があるため、かえって国民の支持を失ったそうだ。
 異族でも犯罪を犯す。普通に考えてみれば当たり前の事かも知れないのだけど、僕は少なからず衝撃を受けてしまった。この国は、見ず知らずだけでなく人間ですらない者を受け入れようとした。にも関わらず、そこに漬け込んで犯罪を犯そうとする者がいるなんて、とても信じ難い。それでも、まだ人外異形基本法は今も継続している。これぐらいの事は初めから想定されていたのだろうか。若しくは、騒いでいるのは国会だけなのだろうか。
 ともかく、僕はこういう事は絶対にしない。そう思った。