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 今日は母の日と呼ばれる日である。
 それを知ったのはテレビの番組で、今日は自分の母親に対して感謝の気持ちを込めた贈り物をするのだという。
 けれど、僕は異族だし何よりも母親の記憶が無い。母親が存在していたかすらも分からない。異族はそういう曖昧な所から生まれるのが普通にだ。
 きっと、これは普通の人間だけにしか浸透していない風習なのだと僕は思っていた。けれど、テレビでは何故か、母の日特集と称してあちこちのお店を回ってキャンペーンを紹介する異族が映っていた。
 僕とは違って、こういう習慣に馴染んでいる異族もいるのだろう。早く自分もそうなりたいと思う。



 その日、住吉は仕事が休みで、僕が目を覚ましても茶の間でドロシーと何か雑談をしていた。僕がのそのそと起きてくると、住吉は早く顔を洗って朝ごはんにするぞと言いながらタオルを投げ、ドロシーはおはようの挨拶と言って僕は抱き締めて来た。本当に何から何まで対称的な二人だと僕は思う。普通なら性格が合わなくてうまくいかなくなるような気がするのだけれど、住吉とドロシーにはそんな気配は微塵も感じられない。むしろ、ドロシーが気まぐれでしかやって来ない方が不自然に思えた。この二人は本当にどういう関係なのだろうか。普段にも増して、僕の興味は尽きなかった。
 顔を洗ってドライヤーとブラシで寝癖を鎮め、朝食を食べる。今日のおかずは、カツオの叩きとホウレン草の白ゴマ和えに貝のすり身を混ぜた玉子焼きだった。カツオの叩きは、見た目がほとんど生で表面が軽く焼かれただけのようにしか見えなかった。でも住吉は元より、ドロシーも普通に薬味の下ろしショウガと玉ねぎを添えて食べていたので、僕も挑戦するような気持ちで食べてみた。すると、表面の程好い硬さと中の意外にふんわりとした感触に驚かされ、思わず食が進み夢中で何切れも食べてしまった。世界中で生の魚を食べるような民族は日本ぐらいだという。その文化にあっさり馴染めてしまった僕は、やはり元々日本に関わりの深い経緯があったのだろうと想像した。
 朝食が終わり、いつものように住吉は台所で洗い物、ドロシーはテレビをのんびりと見ている。前に比べて変わったのは、食後のお茶を僕が淹れるようになったことだ。急須にお茶葉を入れて電気ポットから程好い所までお湯を注ぎ、少し待ってから湯飲みに注ぐ。たったそれだけの作業だけれど、自分が役割を果たしているという達成感があった。台所には立てるほどの身長が無いから、自分に出来る仕事があるのはどこかしら嬉しいと思ってしまう。
「ねえ、今日って母の日なんだってよ?」
 そうドロシーが僕の入れたお茶を飲みながらテレビに視線を向けた。
「母の日って何?」
「年に一回ね、お母さんにありがとうって感謝する日なのよ。ほー、今年はこういうスイーツが流行りなのねえ」
「お母さんにはお菓子を贈るの?」
「元々はカーネーションっていう花なんだけど、日本だとお菓子とか食べ物の方が多いんじゃないかな? 花より団子って諺があるくらいだから」
 日本人は綺麗な花よりも食べられる団子の方が好きなのだろう。僕はどちらとも断言出来ないため、この例には当て嵌まらない。
「ドロシーはお母さんに何か送るの?」
「私? んー、送りたいのは山々だけどねえ。ほら、異族って両親とかそういう家族の繋がりが無いのがほとんどなの。だから、送りたくても出来ないのよね。お店のママには送るけど」
「僕も両親はいないから、送りたくても出来ないや。異族ってみんなそうなのかなあ」
「どうかしら? 中には家族一緒で亡命して来た異族も居るらしいけど。そもそも異族って、両親とか家族とか関係無しで湧いてくるような存在だからねえ」
「ドロシーはどこからどうやって日本に来たの?」
「うーん、話せば長くなるんだけれど。その前に、お茶頂戴」
 急須へ新しいお湯を入れドロシーの湯呑みに注ぐ。良く見てみると、ドロシーの湯呑みの柄は桜吹雪の模様が描かれていた。何と無くドロシーの趣味ではない気がした。
「私の一番最初の記憶は、ネーデルラントってとこに居た頃かしら。今はもうそう呼ばれ無くなっちゃったみたいなんだけど、その頃から私は一人だったの。それからずっと一人で好きなように毎日生きてたんだけど、ここ何十年かな。急にどこもかしこも居辛くなってね」
「居辛い?」
「原理主義とか懐古主義とか、そういうのかなあ。宗教を昔の厳しい形に戻そうっていう人が増えてね。私みたいな下っ端の悪魔は、何かと標的にされちゃうの。清く正しい信者を堕落させる存在ってね」
「それで日本に来たの?」
「そゆこと。存在を否定されると実際に曖昧になっちゃうのよ。だからこの国は本当に居心地がいいの。私のような美人にはみんな優しいし、特別悪い事をしなければ大目に見てくれるもの。今でこそちゃんと異族の法律があるけれど、それがある前だって普通に楽しく暮らせてたからね。それに、すみちゃんみたいな良い男もいるし。この国は私にとって天国そのものよ」
 異族がこぞって日本に集まる理由の一つが、そういった宗教的なものらしい。日本は宗教の戒律に厳しくなく、反宗教的な存在にも寛容だから、追い立てられた人には天国に違いないだろう。けれど、みんながみんなそういう理由で来ている訳でもない。他の異族はどんな理由で日本に来たのか。僕は気になった。
「ずっと一人だったってことは、ドロシーは自分のお母さんとか分からないの?」
「そうね。むしろ、元から居なかったのかも。自分がどうやって生まれたのかも知らないし」
「じゃあ、やっぱり僕にもいないのかなあ」
 そう思うと、少しばかり寂しくなった。母の日、というテレビでも宣伝される行事に、自分は全くの無関係という事になってしまうからだ。こういう行事ごとには出来るだけ馴染みたいが、そもそも関係が無いとなると手が届かないような気持ちになる。
「大丈夫よ。私がクリスちゃんのママになってあげるから」
「僕、ドロシーに何か出来るかな?」
「そうねえ、最初は気難しくて連れないパパと仲良くさせて貰おうかなあ」
 そんな事を言いながらじゃれつくドロシー。丁度そのタイミングで住吉が台所から戻って来た。
「誰が気難しいパパだ。クリスに変な事を吹き込むな」
「やあん、私は真剣なのに。こんな小さな子だもの、やっぱり両親の愛情って必要だとは思わないの? 愛情を注がれなかった子供って将来屈折しちゃうのよ」
「そうは思うがな、お前のは邪念があるんだ」
「あー、夢魔だからって差別なんだー。邪念なんて無いですー」
 そう言い合う二人だけれど、またいつもように同じテーブルを囲んだ。僕はまた急須にお湯を足して、それぞれと自分の湯呑みにお茶を注ぐ。
 多分、二人は性格こそ正反対でも気は合うのだろう。だからこんな風に仲が良いに違いない。