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 日本は天災の多い国だという。
 地震、津波、台風と、一年中何かしらが起こっている。地震が起これば建物や道路が壊れ、津波が来れば港が飲まれ、台風が来れば色々なものが吹き飛ぶ。だからみんな毎日新しい情報を仕入れて災害に警戒しながら生きていると思っていた。けれど、みんな非常にのんびりしている。避難警報が鳴るまでは大した事は無いので、誰も騒いだりはしないそうだ。今日は地震があったけれど、みんな揺れた揺れたと笑って済ませるだけだった。いきなり地面が割れて飲み込まれてしまうとか、建物が倒れて押し潰されるとか、考えたりしないのだろうか?



 今日は図書館から一人で帰った。住吉はまだ仕事で新築地にいる。なんでも沖で天候が荒れたせいで、帰港が遅れている船があるので離れられないそうだ。
 家までの道のりは、もう何度も繰り返し歩いているので心配は無い。それよりも、周囲に気を向ける余裕が出て来たから、どこに何があるのかという事を楽しみながら歩いていた。
 図書館から駅までは、コンビニが二つ、お弁当屋さんが一つ、クリーニング屋が一つ。それから橋が一つに、北東京へ向かうバス停が一つ、そしていつも誰もいない公園が一つ。僕はその公園へ寄り道した。住吉に作って貰ったお弁当は、いつもは図書館の休憩スペースで食べる。けれど、たまには外で食べてみるのもいいと思ったのだ。
 公園はこれといった遊具もなく、所々に古びたベンチと、よく分からない石像がそれらしく置かれているだけだった。花壇のような植え込みもあるけれど、そこには花は無く雑草が生い茂っているだけだ。ずっと手入れをされていないのだろう。何と無く物寂しいように見えた。
 公園の調度真ん中ほどにあるベンチに座り、鞄から住吉の弁当を取り出した。握り拳ほどのおにぎりが二つ、小さなタッパの中にはカツオの竜田揚げ、柔らかい半熟の残る玉子焼きが三切れ、水菜とシラスのお浸し、いつもうちで漬けているキュウリの糠漬けが詰められていた。お握りにかぶりつき、おかずをつつきながら公園の風景を漠然と眺める。大した遊具も無ければ景観も手入れが行き届いていないため、見るべきものは一つとして無い。けれど、以前記憶の戻らない僕にしてみれば、見覚えの無い風景を見るだけでも何かしら進展があったように思えて気持ちが安らいだ。こうして東京中を隈なく歩き回っていれば、いつかは何か手がかりに辿り着けるかもしれない、そんな期待感もある。
 お弁当を食べ終え、一緒に入っていた濡れティッシュで口と手を綺麗に拭う。鞄の中にそれらを片付けると、僕はそのままお腹が落ち着くまでしばらくボーッとしている事にした。今日は本当に天気が良かった。雲は随分流れているけれど、日差しは温かく風も穏やかである。こんなに天気が良いのに、海はどうして荒れているのだろうか。そう疑問に思う。
 そろそろ住吉は家路につかないだろうか。そんな事を思っていたその時だった。
「ん?」
 ふと、僕は自分の体が揺すられたような気がしてベンチへ視線を落とした。まさかこのベンチは腐っていて、僕が座ったせいで壊れかけているのではないだろうか。誰も使わなさそうな公園ではあるけれど、さすがに設置してあるものを壊して良い理由にはならない。すぐに僕はベンチ脇に屈んでどこか壊れそうな所は無いか探した。しかし、
「……あれ?」
 ベンチから立っても、自分が揺す振られる感覚が消えなかった。自分が眩暈を起こしている訳でもないし、誰かに揺すられているという訳でもない。奇妙というよりは不気味な感じがする。
 揺れは更に揺れ幅を増し、自分の勘違いで無い事はもう明白だった。揺れは自分の足元が揺れているようだった。信じられないことに、地面そのものが揺れているのだ。これは一体どういう事なのか、今すぐにでも住吉に訊ねたい、いやむしろ助けて欲しいとさえ思うようになった。地面が揺れるなど自分には想像もつかないことで、またこれがいつまで続くのかも分からない。ただ、これが前にテレビで見た地震というものなのか、とだけ思い出せた。
 どうすれば良いのか分からず固まる僕、やがてベンチの傍にあった変な石像が微かに左右に揺れているのを目にし、遂に僕は我慢が出来なくなってしまった。
「うわーっ!」
 言葉に直せばそれが一番近いと思う。僕はとにかく何かしら叫びながら道路の方へ走り出した。公園の外に出た所でどうにかなる訳でもない。けれど、僕は怖くて居ても立ってもいられなくて、他にどうすることも思いつかなかった。どこか揺れていない所に辿り着きたくて、とにかく無我夢中だった。
 ろくに周りも見ないまま夢中で駆けて公園を飛び出すと、丁度その前で数人のお爺さんが並んで歩いているのに出くわした。ぶつかりそうになり、咄嗟に足を止める。すると地面はもう揺れていない事に気が付いた。僕が公園から飛び出した僅かな間に地震は収まってしまったようだ。
「あ、あのっ!」
「おや、ぼうや。どうかしたのかい? 迷子かい?」
 まだ混乱していた僕は、走った勢いのまま見ず知らずの彼らにそう話しかけた。けれどそんな僕の姿はどうやら迷子に見えたようである。違う。そう答えようとしたが、喉が詰まってうまく声が出て来ない。僕は必死で首を振って否定する。
「い、今! 地震! 地面が揺れて!」
 どうにか声を振り絞る。すると彼らはきょとんとした表情で顔を見合わせた。
「ああ、そういえば今、揺れたよね?」
「まあた始まった。やまさん、夕べ飲み過ぎたんじゃないの? 揺れてなんかないよ」
「いやいや、僕も揺れたと思うよ。みんな鈍感なんだよ。僕なんて夜寝てても、少しでも揺れたらすぐ飛び起きるから」
「夜起きるのはトイレが近いからじゃないかい?」
 彼らはそう和やかに笑っている。今、確かに地震は起こったらしい。それは僕の勘違いではない。けれどそれは、まるで何でもないような様子だった。地面がああもいきなり揺れ出した事が、である。しかも揺れたかどうかすら感じなかった人もいる。僕には信じられなかった。
「地震がどうかしたかい?」
「その、地震だから、大丈夫かなあって……」
「なあに、こんくらいたいしたことはないさ。ぼうやはあれだろ? 人外のだろ? 日本ってのはこんなのいつものことだよ」
「子供の頃から地震なんて普通にあったからなあ。今更あれぐらいじゃあね。ぼうやには怖かったかい?」
 そう優しげに訊ねられ、反射的に僕は首を横に振って強がった。地震なんて当たり前の事だけど、子供だから怖かったに違いない。そう思われるのが何となく癪だった。強がった所で変な声を上げながら飛び出して来たのは事実だけれど、自分から認めるのには気が引けた。
 老人達は最後に気をつけてねとありきたりな挨拶をし、また道なりに歩いて行ってしまった。自分の足では歩けるけれど、おそらく走るような事は出来なさそうな年齢に僕には見えた。そんなお年寄りが平然としているのに、若い自分がああも取り乱した事が恥ずかしくなってきてしまった。次は地震が起こっても平然としていよう、そう密かに心に誓った。
「あ、鞄」
 公園に残して飛び出してきてしまった事を思い出す。僕は慌てて踵を返し公園へ駆け戻った。こんな失敗は今日限りだ。そう今立てた誓いの上に重ねた。
 駆けながら僕は、ふと自分が取り乱した理由が気に掛かった。日本人は何度も地震を経験しているから今の老人達のように慌てたりはしない。なら、自分は地震に慣れ親しんでいないから慌てたのだろうか。それはつまり、僕が日本にはさほど住んでいなかった事になる。
 僕の記憶の手がかりは本当に日本にあるのだろうか。少しだけ不安に思った。