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 朝、ニュースで事件が流れていた。それは子供が巻き込まれた事件で、犯人は捕まったけれど、みんなしきりに許せないとか厳罰を与えるべきだとか怒った口調で繰り返していた。
 一緒にそのニュースを見ていた住吉もドロシーも、同じような口調で怒っていた。そして二人は僕に、出掛ける時は十分に気をつけて、帰る時は早めに真っ直ぐ帰るように、知らない人には十分注意すること、そう僕に言った。
 二人の意見がぴったり同じになるのは珍しい事だった。だから僕はそればかりが印象に残っていて、どうしてこんな事を言われるのか、その発端になった事件の内容はあまり覚えていなかった。言われた事もぼやけて頭の隅に隠れてしまった。
 だけど、朝のこの事はすぐに思い出す事になった。
 今日も図書館に行って、何か記憶の手掛かりが無いか探したものの、あまり成果は無かった。そしてその帰りの途中だった。僕は変なおじさんに遭った。
 おじさんは急に僕の前に立ち止まると、僕の顔を怖いくらいの勢いでまじまじと見始めた。僕はどうしたらいいのか分からなくてじっとしていたけれど、しばらくしておじさんはまた急にどこかへ走って行ってしまった。
 怖かった。本当に怖かった。声も出せないばかりか動けなくなるなんて思いもよらなかった。
 住吉とドロシーの言った意味が良く分かった。こういう事にいつ遭遇するか分からないから、身を守るために必要な事だったのだ。



 今日も図書館の帰りにあの公園でお弁当を食べた。景色が良い訳でもなく賑々しい訳でもない淋しげな場所なのだけれど、最近野良猫が時々来る事を知ったからだ。来るのは斑の猫と三毛の猫の二匹、片方ずつと両方来る時とあるけれど、お互い仲間同士という意識はないらしくじゃれあったりする所は見た事が無い。今日は二匹とも公園に現れたが、僕が口笛を吹いたり鳴き真似をしてみても一瞥するくらいで、ほとんど興味を示してはくれなかった。猫はどうしても僕に近づいてくれない。こちらから近づけばすぐに逃げてしまうので、近づかせてもくれない。僕が異族だからなのか、それとも単に警戒心が強いからなのか。でも、日に日に距離は縮まっていると思う。
 明日こそはもっと傍で見てみたいなどと思いながら、僕は家路についた。来る時に降りた駅で切符を買って改札を抜け、朝乗った駅で降りて改札を抜ける。朝とは違ってぴりぴりした空気が無くて、僕はのんびりと歩いていた。いつもラッシュとは逆方向の電車に乗るのだけれど、あの時間は駅の構内からして空気がぴりぴりしている。改札を通る時も、切符が詰まって人の流れを止めたりしないか不安になるのだ。昼過ぎの駅はそんな心配も無いので、ついつい無駄にのんびりとしてしまう。
 駅を出て、アパートへ帰る途中にコンビニへ立ち寄った。一つだけなら買ってもいいと、住吉からお菓子を買うためのお小遣いを貰っているからだ。コンビニは何度かドロシーに連れられて入った事があるので、どこに何があるのかは大体分かっている。けれど、お菓子の棚は色々な種類があって僕はどれにしようか酷く迷ってしまった。けれど買っていいのは一つ限りである。散々迷った挙句、僕は白い袋に入ったスナックを選んでレジへ持って行った。
 買い物も終わり、僕はアパートへと急いだ。図書館で借りた東京の風景ばかりを集めた写真集を、お菓子と麦茶と一緒に読みたいからだ。でも今は、少しばかりお菓子への欲求の方が強い。
 昼下がりという事もあって、通りは朝に比べ閑散としていた。僕はそこをアパートに向かって早足で歩いていたのだけれど、ふと前方の角から一人の人影がこちらへ曲がってきて、丁度僕と擦れ違う形になった。別に見覚えの無い他所のおじさんであるため、僕は大して気にも留めずそのまま擦れ違おうとした。
 しかし、
「あの、ちょっと」
 突然、そのおじさんは僕の前に立って呼び止めて来た。
 一体何だろうか。そんな疑問を僕に挟ませる前に、おじさんはいきなり僕の前に屈み込むと、鼻先がぶつかりそうなほどの距離まで顔を近づけて僕の顔をまじまじと見つめてきた。急な出来事に僕はじっと身を強張らせた。このおじさんの脈絡の無い行動と、ほとんど瞬きをしないぎょろっと見開いた目が、とても怖くてたまらなかった。
 大声を出して助けを呼べば、誰か大人が来てくれるだろう。この辺りは住宅街だから、日中でも誰かしら大人の人はいるはずである。そう冷静に考えてみたものの、いざ声を出そうとしても喉が詰まって声が出てこなかった。まるで普段何気なく話している言葉の出し方を忘れてしまったような気分だった。
「名前は」
「え、あ、その……」
 突然の事で僕は声が出せなかった。名前を聞き出してどうするのだろう、僕をどうするつもりなのか。そんな恐怖の中、不意に今朝のニュースを思い出してしまい、余計に怖くなってしまった。
 もう僕にはどうする事も出来ない。誰かこの異常に気付いて助けてくれないか。いや、助けて欲しい。そう震えていた時だった。おじさんは恐る恐る、確かめるような様子で僕に訊ねた。
「もしかして……クリス……テル?」
 どきり、と胸が高鳴る。心の内を見透かされたような気分だった。だから、僕は咄嗟に首を横に振って否定した。何か目的がある訳ではなく、このおじさんに名前も知られるのが怖いだけの事だ。
「じゃあ、どこで読んだの?」
 再び、恐る恐る問い掛けてくる。おじさんの質問の意味が分からなかった。僕はただ首を横に思い切り何度も振った。意味の分からないその質問は余計に怖いだけだった。
「……そうか。ごめんね」
 最後におじさんはそう言い残すと、おもむろに立ち上がり今来た道へ走り去ってしまった。
 僕はしばらく呆然としたまま立ち尽くしていた。早くアパートに帰りたかったけれど、そのためには今のおじさんが走り去った方へ行かなければいけないから、どうしても怖くてなかなか踏み出せなかった。それでも、少しずつ時間が経って道路を別な人が通ったりするようになると、怖い気持ちも徐々に薄れていった。
 一体今の人は何だったのだろうか。落ち着いて来ると、そんな疑問が浮かび上がった。
 あのおじさんはどう考えても不自然だ。いきなり顔を覗き込むのもそうだし、何よりどうして僕の名前を言い当てられたのか。
 まさか、僕を知っているのだろうか? 何か無くした記憶の手掛かりを持っている?
 本人に会ってもう一度確かめてみたい。けれど、あのぎょろっとした目を思い出すとまた怖くなった。だから、この事を住吉に話して決めて貰った方がいいと思う。