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 日本では、雨季の事を梅雨と呼ぶ。梅の実が熟す季節だからそう呼ぶようになったと住吉が教えてくれた。
 今日は住吉に長靴と傘と雨合羽を買って貰った。子供用の雨具を住吉は持っていないし、これからも僕が必要になるからだ。デパートの雨具売り場にはもっと沢山種類があったけれど、住吉は全部黄色で統一してしまった。薄暗くても目立つ色だからだそうだ。でも僕は、濃い青色のが良かったのだ。黄色は何と無く男の子っぽくなくて抵抗がある。



「あー、また雨だわー。嫌になっちゃう」
 ドロシーは今朝も不貞腐れている。畳の上に寝転がり顔だけ傾けてテレビを見ているだらし無い姿勢。住吉にドロシーの真似をするなと言われたけれど、言われなくとも僕にもだらし無い姿勢だという事は分かっていた。
 梅雨に入ってからドロシーは、雨が降ると決まって不貞腐れる。雨が降ると、髪が湿ったり、化粧のノリが悪くなったりするからだそうだ。その上、今朝は来る途中に車に泥を跳ねられてブーツが汚れてしまったのだという。だから普段よりも拍車がかかっているように見えた。
 僕も梅雨に入ってからは気分が少し沈んでいた。雨が降るとじめじめしていて、羽が蒸れて背中が痒くなるからだ。ドロシーほどイライラはしないけれど、何と無く気分が暗くなるのは確かだ。今日もそうだけれど、雨の日は外へ出たくなくなってしまう。最近は図書館からは随分足が遠のいている。
「ねえ、クリス。雨の神様ってどんな人だと思う?」
 不意にドロシーが寝転がったままそんな事を訊ねてきた。
「僕は見たことないから知らない。ドロシーはどう思うの?」
「私? これは絶対確実に言えることなんだけど、すっごく意地が悪いのよ。みんなが、絶対に今日は降るな、ってお願いしている時に限ってわざわざ雨を降らせてさ、それでみんなが困っているのを見ながらニヤニヤしてるんだわ」
 断言するドロシーに、僕は何とも答えられなくて眉を真ん中へ寄せた。よく想像でそこまで言えるものだと思う。みんながそう思っているから、という意見ではなくて、ほぼ自分本位の意見だ。
「ねえ、丸ごとオレンジのアイス、まだ残ってなかった?」
「さあ。ちょっと見て来る」
 台所に向かい冷凍庫の蓋を開けてみる。しかし、あったのは住吉が綺麗に整理して入れている魚の切り身だけだった。
「無かったよ。昨日食べたので最後だったみたい」
「えー、嫌だそんなの。今食べたかったのに。クリスちゃん、ちょっと行って買ってきてよ。お願い」
「僕が? 雨降ってるから嫌だよ。自分で行けばいいのに。僕はアイスは食べないもん」
「そんな事言わないでよう。ほら、お駄賃あげる。好きなお菓子、三つくらい買ってもいいよ。大丈夫、すみちゃんには黙っててあげる」
 ドロシーは上半身を起こしてにっこりと微笑み、僕に千円札を一枚差し出す。ドロシーのアイスを買ったとして、あと幾ら残って自分が食べたいものはどれぐらい買えるのか、そんな計算が一瞬で頭の中で繰り返された。
 そういう言い方には弱い。僕はさほど時間もかからずに負けてしまった。
「……しょうがないなあ」
「クリスちゃん、素敵。ママ愛してるう」
 歯の浮くようなドロシーのセリフを尻目に、僕は早速出かける準備をした。雨が降っているので、まずは玄関に無造作にかけられている透明の雨合羽に袖を通す。しかし大人用のサイズのため袖も丈も合わず、着ていくのはやめる事にした。靴は住吉の黒いゴム長を履いてみる。やはりサイズは大きく、足の裏と靴底がついたり離れたりして落ち着かず、丈も膝まですっぽりと覆ってしまったが、普通に歩く分には問題は無かった。傘は大きなこうもり傘があったので持ってみたが僕には少し重過ぎる。だから、よくコンビニで売っている握りの白いビニール傘を差して出かける事にした。
 アパートを出ると、これまで壁越しだった雨の音がはっきりと聞こえて来た。ほとんどが雨が屋根を打つ音なのだけれど、それが朝目を覚ました時に、今日も雨か、とうんざりする気分を思い出させてくれる。やっぱり雨の日は好きになれないと思う。
 長靴で水溜まりを踏みながらコンビニへと向かう。数分ほどで到着し、僕は早速アイスのコーナーへ向かって冷凍庫の中を確認した。ドロシーの食べたがっているアイスは丁度三つあった。それを全部買っても、ドロシーから貰ったお金のうち半分を少し超えるくらいである。
 全部取ってカゴに入れ、今度はお菓子の棚へ向かった。残額を計算しながら、あれこれとお菓子の組み合わせを考える。普段は一つを選ぶのに苦労するのだけれど、その枠が三つになると、それはそれでなかなか選びきれなかった。だが早く決めてしまわないとアイスが溶けてしまう。やがて僕は思い切って、特に普段は手が出せないものを三つ取ってレジへ向かった。
 支払いを済ませコンビニを後にする。雨は一向に勢いが収まらず、僕は溜息を一つついて傘を広げた。アパートに戻るまでの数分が煩わしかった。けど、雨の日は嫌だけれど、こういう役得があるとまんざらでもないようにも思えた。
 とにかく、早く帰ってお菓子を食べよう。住吉に見つかる前に。気持ちを切り替え、僕は足を早めようとした。
「お、どうしたんだこんな所で?」
 調度その時、歩道のすぐそばに一台の車が止まり窓から呼び止められた。聞き慣れたその声に振り返ると、運転席からこちらを覗いているのは住吉だった。
「あ、いや、その」
「なんだ、ドロシーに買いに行かされたのか? まったく、しょうがないな。まあ乗れ乗れ」
 僕の姿を見て住吉は苦笑いし、助手席のドアのロックを外した。どうやら僕がドロシーに無理矢理買いに行かされたと思ったようである。でも概ね住吉の解釈は当っているので、僕は黙っている事にした。
 住吉の車に乗るとやけに買物袋の存在が目立つような気がした。さりげなく袋をドアと自分との間に置いてみたが、アイスが袋越しでも予想外に冷たくて、仕方なく膝と膝の間に移した。
「しかし、その長靴。サイズは全然合わんだろう。俺のだからな」
「うん、ちょっとぶかぶか」
「今日はもう仕事終わりだ、これからお前用のを買いに行くか。どうせ梅雨明けはまだ先だからな」
 こんな天気が続くのは嫌だけれど、自分用の長靴は確かに欲しい。それに新しい雨具があると気分も変わり、また図書館に通う気になれるかもしれない。だから僕はすぐに頷きかえした。実の所、今は自分の買い物について話題を振られたくないというのもあったが。
「おかえりー。あれ、すみちゃんもう帰ってきたの?」
 アパートに到着してドアを開けると、茶の間で寝そべっていたはずのドロシーがすぐにやって来て出迎えた。心配していたのかと一瞬思ったけれど、すぐにコンビニの袋に手を突っ込んできたので、それは違うと分かった。
「ああ、今日は早番だ。さっきコンビニの近くで会ってな。それにしてもお前、自分が食べるものを子供に買いに行かせるなよ」
「可愛い子には旅をさせよって、日本じゃ言うじゃない? 私はクリスちゃんのためを思って頼んだのよ」
「体の良い使い走りだな」
 やれやれと住吉は溜息を付き、荷物を自室へしまって着替える。その間、ドロシーは早速買ってきたアイスを開けて食べはじめた。僕は残りのアイスを冷凍庫へしまい、自分の分のお菓子はそっと茶箪笥の奥へ潜ませる。ドロシーはいつもの事だけれど、おかげで買ってきたものがうやむやになり、僕はほっと安堵の溜息をついた。
「ドロシー、俺らはこれから出かけるんだが、お前はどうする?」
「えー、外は雨よ」
「だから雨具を買いに行くんだ。クリスの」
「じゃあお昼食べに付いていく」
 そう答え、ドロシーはもう食べてしまったアイスのカップをごみ箱へ投げ捨てた。カップは綺麗な放物線を描いて、ごみ箱のど真ん中に落ちる。さすがに投げ慣れているなあと僕は感心した。
「おい、アイスの空は洗ってから捨てろといつも言ってるだろ。蟻がたかるから」
「今の季節に蟻なんかいないわよ。毎日毎日雨ばっかりだから、巣で溺れちゃってるわ」
 文句を言いながらもドロシーは素直にアイスのカップを拾い台所へと向かった。その間、僕は住吉に頼まれてお茶を炒れた。雨が降って底冷えがするから熱いものが飲みたいのだという。わざわざ買いに行かせてまでアイスを食べるドロシーとは、見事に正反対だと思った。
「そういえば、三人で出掛けるのって久し振りよね。それなのに雨が降るなんて最悪ー。やっぱり、絶対意地が悪いのよ」
 カップを洗い終えて台所から現れたドロシーは、またそんな文句を言いながらカップをごみ箱へ投げた。今度は一直線に向かってごみ箱の中へ落ちた。凄いコントロールだけど、僕には無駄にしか見えなかった。
「何の話だ?」
「雨の神様だって。降って欲しくない時に降るから」
「じゃあ、ほら。文句言えばいいんじゃないか?」
 住吉がお茶をすすりながらテレビを指差す。テレビでは昼前のニュースで天気予報のコーナーをやっていた。大人の背丈もある日本地図に白い曲線が何本も引かれ、それを細い棒で指しながらあれこれと解説している。いつも思うのだけど、そんな説明よりも天気はどうなるのかだけを早く言って欲しいものだ。
「ほら、この高岡と倉岡って双子の予報士。こいつらがそうだぞ」
「え、この二人が?」
 すぐに僕とドロシーは並んでテレビにかじりついた。映っている二人の天気予報士は一通りの解説と予報を終え、僅かに残った放送時間を埋める雑談を始めていた。
『というわけで、今日は仰山雨が降ります。傘は忘れないように』
『傘って言えば、この間も夕立あったでしょう? あの時傘持ってなかったんだけどさ、楽屋に置き傘ある事に気づいて。それを取りに戻ったんだよ』
『あー、はいはい。あれでしょ、藍色の十六本骨。ナノテク使ったっていう撥水生地で』
『そうそう、それ。それがさ、どうも誰かに持っていかれたみたいで無くなってたんだよ』
『それは気の毒に。電話くれたら一緒に傘入れてやったのに。俺も傘忘れたけどさ、楽屋に偶然傘見つけて助かったんだよ』
『お前、その傘俺のじゃないのか?』
 そこで唐突に画面が切り替わり、コマーシャルが流れ始める。どちらからともなく、僕とドロシーは溜息をついた。何となく脱力感のようなものを覚える。
「いつもこんな軽いから、日本の神様だって分からなかったわ」
「みんながみんな、軽い訳じゃない」
 住吉は憮然とした態度で、重苦しくお茶をすすった。