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 水を泳げるかどうかは単に才能なんだという。水と自分の適切な距離感は人から教えられるものではなく、自分で無意識の内に線を引くものだ。だから、人によって向き不向きが出来る。
 僕は残念ながら後者だった。浅瀬に浸かるのは平気でも、深い所は怖くて仕方ない。溺れるとかそういうものとは別の恐さがあるのだ。僕の羽は飛ぶためのものじゃないから、水に濡れると重くなって沈んでしまいそうな気分になるせいだろうか。
 何故だろう、記憶を失う前に何か嫌な事でもあったのだろうか。



 梅雨が終わったかと思うと、連日猛暑日が続いた。日本の気候は本当に滅茶苦茶だと思う。空気が乾いているから背中が痒くならなくなったけれど、頭の先がじりじりと焦げ付くような暑さだけはどうにも我慢がならない。
 今日は住吉は仕事が休みで、僕が起きてくると茶の間にドロシーと一緒にいた。ドロシーは暑さを紛らわせたいのか扇風機の前にぴったりと陣取っているが、何故か口を開けて唸っている。けれど住吉はいつも通り涼しい顔をしてお茶を飲んでいた。
「おう、起きたか。おはよう」
「おはよう。ドロシーは何をしてるの?」
「暑いからよう」
 良くは分からないけれど、こうする事で暑さが紛れるらしい。自分も今度真似をしようと思ったけれど、住吉の表情が少し冴えない気がしたからやはり止める事にした。きっと行儀の悪い事なのだろう。
 三人揃って朝御飯を食べる。その間にテレビでは天気予報が流れ、いつもの双子の予報士が軽快な口調で今日も猛暑日になると伝えた。更に昨日の一番暑い時間帯での都内の映像も流れ、まだ日が昇ったばかりだというのに頭を焦がされているような気分にされうんざりする。
「ねえ、すみちゃん。暑いから海に行こうよ」
「俺はいつも行ってる」
「仕事じゃなくてさ、海水浴。私、この間凄いの買ったんだ。だから海に行って涼もうよ」
「今の時期、海水浴場なんかどこも混んでるぞ。余計暑苦しいんじゃないか?」
「やだやだやだ、海に行きたい」
 ドロシーが駄々をこねながらしきりに住吉に食い下がる。しかし住吉はあまり気乗りしていないらしく、表情が渋い。すると、
「ねえ、クリスちゃんも海行きたいよね?」
 案の定、僕も巻き込んでこようとする。本当に涼しいのなら行ってみたいけれど、住吉の言うように大勢の人で混んでいるのなら遠慮したい。あまり人混みは好きではないし、そういう所はこの間のような変な人だっているかもしれないのだ。
「ほら、クリスちゃんも行きたいって。はい、多数決で決まり」
「まったく、いい加減落ち着いたらどうだ。混んでて海にすら入れなかったらどうするつもりだ。去年だってそうだっただろう」
「あれは違うの。運が悪かっただけ。今年は絶対に大丈夫」
 どうやらドロシーは、既に一度そういう事に住吉を巻き込んだようである。住吉が渋い顔をするのは実体験に基づくものらしい。
 それでもドロシーはねえねえとしきりに住吉にせがむ。何としても海に行きたいようだが、大の大人がそれほどこだわるほどの事なのだろうか。僕は不思議に思った。
 とりあえず僕は放っておこう。そう決め込み、僕は御飯を食べながらテレビへ目を向ける。調度その時だった。番組の間に入り、コマーシャルが流れる。それは都内にあるプールをメインしたレジャー施設だった。プールが目玉のようだけれど、温泉やサウナ、カラオケやボーリングといった施設に加え、一度に三百人がフードコートや五十を越えるレストラン街まで備えているという。夏はここで遊ぶしかない、そんなキャッチフレーズが最後に出た。
「ねえねえ、だったらさここ行こうよ。海じゃないよ。仮に混んでて入れなくてもさ、混浴したり御飯食べたりして帰ればいいじゃない」
「仕方ないな……。とにかくだ、行くのは構わんが去年みたいなはしたない水着はやめろよ」
「やだ、すみちゃんったら。独占欲?」
「風紀の話だ」
 泳ぐ以外に何かしらあるならと、住吉が遂に根負けした形になったように僕には見えた。けれど、ただ混むだけの海よりはこっちの方がずっと楽しいように思った。僕はまだ温泉には入った事はないし、カラオケもボーリングもどういうものか遊んだ事が無い。だけど、こんなに大きな施設を作るくらいなのだから、きっと楽しいに違いないだろう。
 話がなし崩しにまとまると、早速出掛ける事になった。まずはドロシーを自宅まで車で送り、準備をしている間に僕を図書館まで連れて行ってもらう。今日返す予定になっている本があるからだ。
 準備が整い、出発してから目的地に到着する頃にはお昼近くになっていた。ドロシーの準備が何かともたついたせいである。お昼御飯には少し早いものの、お昼になればどこも混んで入れなくなるだろうと、早めにお昼御飯を食べる事にする。それから一番の目的だったプールへと向かった。
 この施設の目玉である大型プールは、コマーシャルでみたそのままの風景だった。何と無くテレビと同じものを見るのは感動してしまう。宣伝と実物が違うと問題だけど、全く同じというのは凄いと思う。
 僕と住吉は売店で買った水着に着替える。やや遅れて来たドロシーは自分で用意した水着を着ていた。住吉はまた渋い顔をした。多分、ドロシーの水着の布地が少ないせいだと思う。
「お待たせー。どう、似合う?」
 ドロシーはにこにこしながら僕達の前でくるりと一回転して見せる。周囲の人達はそんなドロシーへちらちらと視線を送り、住吉は眉間に皺を寄せた。しかしドロシーは構わずに住吉の左腕に自分の両腕を体ごと絡ませて来る。
「またそんなのを買ったのかお前は」
「えー、だって今年の流行よ? 角度が狭いから足が長く見えるの」
 そうドロシーは言うのだけれど、僕がざっと周囲を見た限りではドロシーのような水着を着た人は一人もいなかった。それなのに今年の流行なんだ、と僕は不思議な気持ちだった。
「それより早く入ろ。あれ、有翼の方は必ずシャツを着て下さい、だって。クリスちゃんのこと言ってる。有翼差別ね」
「羽が散らばって掃除が大変なんだろ。仕方ないさ」
 また売店へと戻り、濡らしても良いようにシャツを一枚買って上に着た。僕はシャツを着ていい理由があるなら従うのに異存は無かった。まだどうしても自分の羽を人前に見せる事は、自分が異族だと宣伝するようで抵抗があるのだ。ただ、買ったのはドロシーが選んだシャツで、僕が読めない文字がプリントされていたので意味を聞いてみたら、ドロシーも住吉も分からないと答えた。どうして不思議に思わないのかと思ったけれど、日本ではそういうシャツをみんな普通に着るらしい。
「クリスは泳ぎは得意か?」
「分からない。こういうとこ来たの初めてだし」
「泳ぎ方なんかは覚えているか?」
 少し考え、首を横に振る。体はどう動くかはともかく、泳ぎを練習したという類の記憶は残っていなかった。
「じゃあ、そこの浅いプールから慣らしていくか。いきなり深い所に行って溺れたら大変だからな。なに、一旦慣れてしまえば泳ぐなんて難しくはない」
 僕は住吉に連れられ、大型プールに併設されている子供用のプールへ行った。子供用のプールは僕の腰ほどしか水深が無く、住吉にいたっては膝ぐらいである。入って遊んでいるのは僕よりもずっと小さな子供ばかりで、そこに混ざるのは少し恥ずかしかった。
 両手を引いて貰いながら体を水に浮かせ、まずはバタ足の練習から始める。水は思っていたよりも抵抗力があって、足が思うように動かせなかった。僕はむきになって思い切り水を足で蹴り付けるのだけれど、水を蹴るのではなく切るようにと住吉に直させられた。
「ねえ、そういえばドロシーはどこへ行ったの? いつの間にかいなくなっちゃったけど」
「さてな。まあ、あいつはしょっちゅうどこかへふらふらと行ってしまうからな。困ったものだ」
 そう苦笑いする住吉。けど僕には、言うほど困っているようには見えなかった。多分慣れているんだと思う。ドロシーの行動パターンを自分達の基準で考える事が間違っているのだろう。
 しばらく住吉に手を引かれて、やがては手を離してもそれなりに泳げるようになって水にも慣れ親しんできた頃、また唐突に今までどこにいたのかドロシーが戻ってきた。
「私、もう五人もナンパされちゃった。でも安心して、私はすみちゃん一筋だから」
「分かった分かった」
 嬉しそうな顔のドロシーに対して、やはり渋い表情の住吉。この二人の関係は未だによく分からない。僕はまたいつものように遠巻きの気持ちでそれを眺める。
「ねえ、あっちに流れるプールがあるよ。ちゃんと人工の波も出るんだって」
「面白そうだな。よし、そろそろ慣れた事だし言ってみるか?」
 僕達は子供用プールから上がり、ドロシーの言う流れるプールへと移動した。
 プールは普通長方形の形をしているものと思っていたけれど、流れるプールというのは、まるでドーナツのような形をしていた。中に入っている人はぐるぐると右周りに回っている。波の向きがそうなっているから、身を任せるとそう回るのだろう。プールの中心は柵で囲われて上がれないようになっていた。そこには緑の芝生と、時間を示す白いデジタル時計が立っている。時計の残り時間がゼロになると、波の向きが逆になるようだ。
「すみちゃん、それっ」
 突然、ドロシーはプールサイドで住吉の腕を掴んだままプールへ背中から飛び込んだ。不意を突かれた住吉はドロシーの道連れになる格好でプールへと落ちる。
「危ないな、お前は。誰かにぶつかったらどうするんだ」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと見てたから。ほら、クリスちゃんも早く」
 そう言ってドロシーは両手を広げて僕に飛び込んでくるように促す。けれどそれは危ない事だと思い、僕はプールサイドに腰掛けて足から順にプールへ入った。けれど水深は思ったよりも深く、縁から手を離してしまったぼくは慌てて水を掻いて住吉にしがみついた。住吉は足がついているけれど、水が胸の所まで来ている。それでこのプールは相当深いのだと実感した。
「ちょっとお前には深すぎるな。浮輪でも借りて来るか。ベストみたいに着れるのがあったはずだ」
 プールのすぐ側には浮輪を貸し出すコーナーが設置されていた。有り触れたものから、住吉の言うベスト状のもの、中にはイルカの形をした乗り物まであった。
「僕、あのイルカのがいい」
「あれか? まあ良いがな、泳げないぞ」
「ここ深いからいいよ」
 そう言って、僕はイルカの乗り物を借りて貰う事にした。こんな足も着かないような深いプールで泳ぐなんて、僕は既にこりごりだと思った。子供用のプールにも戻りたくないし、それならイルカに乗っていた方がまだ楽しいはずである。
 ふと僕は、自分がどうやって日本に来たのかを思い出した。今更だけど、僕は海岸に流れ着いていたのだから海を泳いで日本へ渡ろうとしていたのだろうか。それも、こんなプールで泳ぐ事すら怖いと思っているにも関わらずだ。
 だけど、どこの国から泳ぎ始めたのかは分からないけれど、幾ら何でも外国から泳いで渡ろうとするなんて無謀にもほどがある。旅客機や旅客船に乗っていて海に落ちたという事も考えられるけれど、それなら新聞やニュースで報道されるだろうし、僕の事を探しに来る人がいるはずである。
 なら、密入国をしようとしていたのだろうか。それなら、例え海の真ん中で船が沈没しても、誰も知らないだろうし探しにも来なくて当たり前である。
 少しだけ、記憶を無くす前の自分の素性が怖くなった。