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 日本は異族にみんなが寛容だと思っていた。差別も偏見も無いから、同じ生活圏にいられる、存在が認められる。そう僕はずっと思っていた。
 でも、本当は違うのだ。国籍とか人種とか、それについての差別や偏見は無いのは本当だと思う。ただ、もっと別な点について、本当は深い蔑視がある。理屈ではどうしようもない差別だ。そして、それは僕にも当て嵌まる事なのかもしれない。



 カレンダーではもう夏は終わったのだけれど、まだまだ日中は暑い日が続く。これが残暑というものらしい。駅から図書館までの道のりが、軽く汗ばむほどの距離に変わり始めた。それでも木陰に入れば随分楽だし、風が吹けばあっという間に汗が引くほど涼しくなる。
 今日もまた朝から図書館へ行き、帰り際に本を一冊借りる。それから帰り道の途中、いつもの公園で住吉に作って貰ったお弁当を広げ昼食にした。今日もお弁当には大きなおにぎりが二つ入っていた。中には、紅鮭と昆布の佃煮ときんぴらごぼうと梅干しと、四つの具が詰まっている。一度に四つの味が楽しめる贅沢なおにぎりだ。
 僕の口には大き過ぎるので、少しずつゆっくりと食べていく。その間、すぐ隣に借りてきた本を広げて読んだ。何かをしながら御飯を食べると、いつもはすぐに住吉に叱られる。でもここには誰もいないから、存分に好きな事をしながら御飯が食べられた。
 やがて一つ目のおにぎりを食べ終え、持って来た水筒の麦茶を勢い良くごくごくと飲んだ。御飯を食べて飲むお茶はいつもおいしい。勢い良く飲むといつも注意されるのだけど、やはり同様にここには僕しかいないのだから飲み方なんて自由だ。
 水筒の中の氷をガリッと噛み砕き、おかずを少しつまむ。そしてもう一つのおにぎりに手を伸ばした。
 その時だった。
「ん?」
 ふと僕は本を読んでいた視界の端に、カサカサと音を立てて動く影を見た気がした。
 まさか。
 僕は大きな虫だと思って、悲鳴をあげそうになった。虫は生理的に受け付けないし、こういう所を這いずり回るのは気持ちの悪い虫しかいないからだ。けれど、動いた先を良く良く見直してそれを直視してしまった瞬間、僕は悲鳴も忘れるほど衝撃でそのまま気を失いそうになった。
「ああ、突然ごめんなさいね」
 直視したそれは、僕の表情を見てそう申し訳無さそうに謝った。どこにでもある、ほんの些細な事を切っ掛けに交わされるごく在り来たりな言葉だ。でも僕の耳にはほとんど届いてはいなかった。ただ、そこにある物体を物体として辛うじて認識が出来る、そんな状態だった。
 ベンチの下から見上げる顔。不自然な角度からそれは飛び出し、一度僕を見てにこやかに微笑むと、カサカサと音を立てながら這い出て来た。
 それは、一人の老人だった。しかし明らかに異質なのは、この老人には腕が六本も生えていて、まるで虫のように地面を這いずり回る事だ。服とは到底呼べないぼろきれを体に巻き、薄汚れた体からは何とも言えない悪臭が漂う。
 明らかに異族である。けれど、僕が怖いと思ったのはそれではない。この老人の、自分の日常には無い明らかな異質さだ。信じ難いほどの汚れ、着衣とも呼べない布、延び放題の髪と髭、それは僕が普段当たり前に過ごしている生活では到底有り得ないものだ。
「坊ちゃん、わしは怪しい者ではござんせん。何も後ろ暗い事なんざ企んでおりません。ですから、出来ればそのおにぎりを一つ恵んでは下さいませんか? このじじいを哀れだと思って」
 僕は怖くて言葉も出せなかった。
 何をされるのか分からない。そんな恐怖から、僕は恐る恐るおにぎりを放り投げるようにして差し出した。
「ありがとう、ありがとう。本当に、ありがとう」
 老人は何度もお礼を言いながらおにぎりにむしゃぶりついた。がっつくような汚い食べ方で、あっという間におにぎりは無くなってしまった。それでもまだ未練がましく持っていた指を丹念にしゃぶる。人前でこんな事が当たり前のように出来る、その感覚がますます僕を震えさせた。
「坊ちゃん、わしが怖いですかね?」
 そんな僕の視線に何かを感じ取ったのだろうか、老人はおもむろに訊ねて来た。僕は何も答えられなかった。うまく自分の舌が回らないからだ。
「いいのです、言わなくとも分かります。そりゃ、こんな汚らしいじじいに、いきなり出くわしたんだから」
 老人は地面に這いつくばった笑った。何とも不気味な容姿である。けれど老人の口調はそれほど怖くはない感じがした。
「おじいさんは、異族……?」
「その通りです。世間では、貧乏神だなんて呼ばれています。そんなもんで、名前は忘れてしまいました」
 前に何かの本で読んだことのある名前だ。日本では色々な不幸にも神様がいて、中でも貧乏を司るのがこの貧乏神だ。ある地方では毎年貧乏神を追い出す行事をしていたり、お金に縁の遠い人を罵る時に使われたりする、同じ嫌われるにしても鬼や悪魔とはまた違った存在だ。
「わしはね、貧乏の神はこういう姿形をしていると思われているから、こういう姿に生まれついてしまいました。でも、その事については何も恨んではございません。貧乏神が貧乏ったらしい格好をするのは当然ですからね。坊ちゃんは幸せですよ。そんな可愛いらしい姿なら、きっとみんなから愛されているでしょう」
 僕はただ何と無く頷く事しか出来なかった。老人の言っている事はともかく、早くこの場から逃げ出したい、その一心だった。怖いというよりも嫌悪感だと思う。とにかく、係わり合いになりたくなかった。
「しかし、何でわしのようなものが生まれて来るんですかね? 貧乏なのは病気か何かと思いたいんでしょうか。それで気が休まるならそれに越した事はないんですけどね。おにぎり、御馳走でした。この御恩は忘れません。貧乏神でも、恩知らずじゃあございませんからね。それでは」
 失礼、と言い残して老人はどこかへ去って行った。地面を這いながらの目立つ姿なのに、いつの間にか消えてしまったのだ。ベンチの下から現れたように、何かの物陰に潜んでいるのだろうか。人の目から逃れるために。
 僕は残ったおかずを一気に口の中へ詰め込むと、広げていた荷物を急いで片付けて公園を飛び出した。自分でも良く分かるほど頭が混乱していた。怖いのと気持ち悪いのと、それから妙に胸に刺さる老人の言葉とを、うまく自分の中で折り合いが付けられなかった。
 あの老人は普段どんな生活をしているのだろうか。人の目を避けながら、こうやって誰かに食べ物を貰っているのか。でも、必ずくれるとは限らない。悪い大人もいるから、もしかすると手をあげられたりするかもしれない。それで、子供の僕にもああも下手なのだろう。
 普通に仕事をしてお金を貰い、御飯や服を買えばいいのではないか。そう初め僕は思った。けれど、少し考えるとそれはとても難しい事に気が付いた。あの老人を見たら、ほとんどの人はきっと僕と同じ気持ちを持つはず。それじゃ仕事どころか人と話をするのも難しい。それに、あの老人はその事を自分でも気が付いている感じがした。
 異族は皆、何かしらの意味や由来があって生み出された存在である。それがたまたま、この日本で実体を持った、そういう時代である。
 あの老人は貧乏神、人を貧乏にするために生まれたのか、それとも貧乏である事に理由をつけて気を紛らわせるために生まれたのか、どちらかだ。でも、どちらにしても人から好かれるような要素は一つもない。
 僕には一体どんな意図や由来があるのだろうか。何かの役に立つ力も無い、鎮めなければいけない祟りも起こせない、あの老人のように矢面に立たされる由来もない。それなら居ても居なくても何も変わらないのではないか。
 けれど、僕がこうして存在するという事は、誰かが必要として姿形を作ったからだ。現に僕はいるのだから何か由来があるのは違いないはず。
 僕はこれまで以上に、何としても自分の過去を捜し当てようと決心する。けれど、本当にそんなものは見付かるのかと、同時に少しだけ弱気だった。