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 僕は最近、日本に馴染んで来たと思う。それは、生活が無意識の範囲で事足りるようになったという意味ではない。
 あんなにも無くした記憶を取り戻そうと、異族である自分のルーツを見つけ出そうとしていたのに、最初の必死さは今はもうほとんど無くなってしまった。それよりも毎日を楽しく暮らせればそれで良いか、そう思い始めている。
 自分が何者か分からないのは苦痛ではなかったのだろうか。いつからその苦痛が消えてしまったのか。
 住吉もドロシーも優しい。だから、居心地の良い今の生活が気に入ってしまって、それがずっと続けば満足だと気が変わってしまったのだろうか。
 僕は、今ではもう、こんな事で悩むよりもコタツでミカンを食べている方が大事になってきている。
 もっと危機感を持たなきゃ駄目だ。本当の自分は、絶対に取り戻した方が良い。



 時計ではまだ夕方なのに、外はすっかり暗くなっている。僕は買い物袋を抱えてアパートへと急いだ。
 冬になると夜が早く長くなる。そんな事を夏に聞かされて、疑った事を思い出す。確かに、まだ半袖で外へ出られた時は今の時間でももっとずっと明るかった。なのに今では街灯が無いと足元も良く見えないほど暗い。まだ夕飯時に差し掛かる前なので通りには人の行き交いがあるけれど、やはり夜道には違いないので僕は自然と足を早めて家路を急いだ。
「おう、ご苦労さん。コタツ入ってていいぞ」
 アパートに着くと住吉は夕食の準備中だった。僕は買ってきた野菜を渡してコタツへと飛び込む。特に冷たくなった指を、コタツに直に当てて温める。けれど、そんな事では一度冷え切った指先は簡単には温まらない。
「おかえりー。寒かったでしょ? これ飲むと、温まるよう」
 コタツではドロシーが二本目のビールを飲んでいた。今夜は鍋をするから鍋にはビールが無いといけない、そう言って沢山買い込んで来たのはドロシー本人なのだけれど、それを一人で飲み尽くそうという勢いだ。
「僕は飲みません。それよりも、空き缶はちゃんとまとめてね。資源ごみにするんだから」
「やだ、クリスちゃんったら、なんか主婦っぽい」
 主婦だからではなくて、常識だと思うのだけれど。そもそもゴミを片付ける事もしないドロシーに、ゴミの分別は無理なのかもしれない。
「よし、じゃあそろそろ始めるぞ」
 コタツにカセットコンロを設置し、住吉はその上に大きな土鍋を置く。中には狐色のだし汁が入っている。それからもう一つ、色々な具材の並んだ大皿がその隣に並ぶ。色々な野菜やキノコ、エビやカニといった魚介類もあった。コンロに火を着け、まずはだしになるキノコやエビカニから投入する。しばらくするとだし汁も煮立ち、徐々に鍋の中には薄茶色の泡のような灰汁が浮かび始めた。僕は丁寧にその灰汁を取っていく。
「そういえば、今日は何鍋なの?」
「ちゃんこ鍋だ。とは言っても、きっちり決まった作り方なんて無いんだけどな」
 それから、大きく切った鮭や鱈の切り身、豚肉に鳥団子といった火の通り難いものを入れて行く。それらから灰汁が出なくなると、最後に春菊や白菜のような野菜を入れ、一煮立ちした所で食べ時となった。
「はい、じゃあ取り分けてあげるね」
 ドロシーが率先して取り皿へ取り分け始める。理由は良く分からないけれど、いつも鍋をする時は決まってこうだ。あまり好きじゃない春菊を僕の分は少なめにするから、いつものわがままという訳でもないようである。時々、ドロシーの行動は本当に分からない。
 熱い鍋の具を吹き冷まし、それでも足りない時は冷たいお茶を飲みながら舌鼓を打つ。鍋料理はそれほど手間もかかっていないように思えるけれど、どれを食べてもおいしいので不思議だ。それとも、こういう雰囲気で食べるからそう感じるのだろうか。外で食べるお弁当の理屈だ。
「さて、そろそろ年の瀬だなあ」
「そうよねえ。クリスマスはどうする?」
「どうでもいいだろ、そんなのは。それよりも、自治会の見回り当番とか、お歳暮の注文とか、神棚の掃除、得意先への挨拶回り、年賀状書きとか、やる事は沢山あるんだよ」
「大変ねえ、日本は」
「たまにはお前も手伝ったらどうだ」
「ママはクリスちゃんの子守してるう」
 普段を思い返すと立場は逆じゃないか。そんな事を思う。
 日本は年末になると仕事以外でも忙しくなるらしい。今年中にやっておかないと後で大変な事になる、そういうことが沢山あるせいだろう。僕は図書館が長い休館に入る前に本を入れ換えておくぐらいしか思い浮かばない。だけど、住吉の手伝いは当然する。
 やがて鍋の具材がすっかり無くなり、やや濁っただし汁だけが残った。再びだし汁を煮立たせ、具を一から順に入れていく。鍋の二回戦目、だし汁が濃くなって味わいが変わるからおいしいのだ。三回戦目は当然雑炊である。
 一通りの具を入れ後は煮え切るのを待つだけである。そんな時だった、突然玄関から呼び鈴が聞こえた。
「はいはい、今出ますよ。ちょっと鍋見てろよ」
 住吉がビールのグラスを置いて玄関へ向かう。すると、親しそうな口調で挨拶が交わされた。誰か年配の男の人の話し声も聞こえる。どうやら知り合いの人が来たようである。
 こんな時間に来るのだから、何か大事な用事なのだろうか。そう思っていたが、程なくして住吉は戻って来た。
「誰だったの?」
「自治会長さんだ。夜の見回りの当番表を持って来た」
「あら、いつから?」
「来月だ。まあ、今年は参加者も多いから、週に二度くらいだな」
 歳末は火事や空き巣に引ったくりと、そういう事件が増えるのだという。それを未然に防ぐための活動が夜の見回りだ。一見すると何でもないような事だけれど、やるのとやらないのでは随分と事件の数が変わってくるのだという。
「それにしても、こんな時間にわざわざ配りに来るなんてねえ。家の方は晩御飯いつまでも片付かないんじゃないかしら」
「会長さんは元々息子さんと二人暮らしだったんだが、その息子さんは少し前に病気で亡くなってな。今は一人暮らしなんだ」
「まあ、病気ってまだ若かったんでしょうに」
「元々体もあまり丈夫では無かったそうだ。その上に仕事のし過ぎでな」
「働き過ぎねえ。過労死だっけ。そういうのってさ、会社を訴えたりしないの?」
「どうだろうな。ずっと気落ちしていたから、そういう方向に向かなかったんじゃないかな。賠償金を貰っても、息子さんが帰って来る訳でもない」
 自治会長という人の事を僕は全く知らない。けれど、今の経緯を聞いていて、まるで自分の事のように悲しくなった。親は子供に先立たれるのが辛い、前にそんな手記を図書館の新聞で読んだ事がある。多分それはそのまま自治会長にも当て嵌まるのだろう。
「ねえ、日本人は死ぬまで働くのが普通なの? 住吉もそうなの?」
 ふと言い知れぬ不安が過ぎり、思わず僕は住吉にそう訊ねた。住吉は不意を突かれたような驚いた表情を見せ、グラスのビールを一口傾ける。
「心配すんな、俺はそこまでやらねえよ。それに、異族ってのはそんな事じゃ死んだりしないもんだ。過労死なんて、無い無い」
「あら、もしかしてクリスちゃんは知らなかったのかしら?」
 二人はさも当然という顔で口許を綻ばせた。
「じゃあ、働き過ぎたら異族はどうなるの?」
「疲れが溜まれば、単に弱くなるだけさ。それに、体のあるような異族ってのはそんな簡単には弱まらない。そもそもだ、俺達は空想上の存在なんだよ。だから、人間のような生き死には無い。元々生きてないんだから、死にようもないのさ」
 異族は生きても死んでもいないなんて。初めて聞く事だ。
 異族は人間のように御飯を食べたり眠ったりするけれど、それをやめたら死ぬのだろうか? そんな疑問があったが、これで全て解決する。人間とそっくりな異族も多いけれど、やはり生まれが違うから根本的な部分は全く別物なのだろう。
「異族はどうしたら死ぬの?」
「誰からも忘れられた時だろうな。みんなから存在すると信じられて、今こうして体があるんだ。誰も信じてくれなかったら、それは居ない事と同じ。体も無くなるだろうさ」
「今までそうなった人は居るの?」
「さてな。みんなから忘れ去られたら、死んだ事に誰も気が付かないだろうし。誰かしら知ってるくらいなら、初めから消えたりはしないだろうさ」
「その点、私は得よね。美人だからみんな覚えててくれるもの」
 どちらかと言えば厚かましさと我侭ぶりで覚えられているような気がする。そんな事を思ったけれど、それはそれでドロシーの存在を大勢の人が信じている事に変わりはない。
 僕も同じように誰かしらから存在を知って貰えるようにしないと、いつかぷっつりと消えてしまうのかもしれない。いよいよ切羽詰まったりしてくると、ドロシーのような振る舞いをしなければいけなくなるのだろうか。それだけはいささか気が引ける。
「まあ、人も異族ももちつもたれつって事だな。悪い事をしなければ、いつまでも感謝して貰って、存在が揺らいだりもしない」
「でも悪魔は別よねえ。あえて悪い事をして、みんなから怨まれて覚えられるんだから」
「日本にも祟り神っていう似たようなのがあるぞ」
 ふと僕は気が付いた。僕がこうして体を持っているという事は、誰かが僕が存在すると信じたからなのだろうか。ならその誰かは、僕がどうやって生まれたのかを知っているに違いない。もっとも、その誰かを見つける肝心の方法が無いのだけれど。