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 忙しくても、どこか気持ちがわくわくする。大晦日はまさにそれだ。町に出ればどこも大勢の人が賑わっていて、びりびりと頬が痛くなる寒さでも熱気で紛れてくるほどだ。
 今日で今年は終わり、明日からは新しい年になる。結局今年中に自分の記憶を見つける事は出来なかったけれど、気持ちを改めて来年からまた頑張ろうと思う。



 昨日は部屋の大掃除や買出し、今日は御雑煮やおせち料理の準備で朝から忙しかった。ようやくそれらも片付いた夕方からは一息ついている。このままお正月までのんびりと過ごす予定になっている。けれど住吉は、あくまで予定とそこを強調していた。幾らのんびりしていたくとも、ドロシーが必ず初売りだ初詣だと連れ出されるに決まっているからである。
「今夜は大晦日だからな、眠くなるまで起きてていいぞ」
「本当に? それじゃあ、日付変わるまで頑張ってみる」
 夕食の時にそんな事を言われ、僕は胸を躍らせた。夜更かしを公認で出来るのは初めての事である。普段は眠くなくても九時には布団に入らされていたから、十時とか十一時とか想像もつかない深夜を迎えるのは今からでもドキドキしてくる。
「すーみちゃーん! お待たせー!」
 夕食の片付けが終わった頃、ドロシーがいつもにも増して騒々しくやってきた。お酒を飲んでいるのか顔が少し赤い。
「やっとお店抜けて来られたの。もう、年の瀬くらい休めばいいのにねえ。でもいいの、その分ボトル空けて貰ったから」
 そうけたけた笑いながらドロシーは、コートを放り投げて住吉に甘える。しかし住吉はいつものように眉間に皺を寄せ、ドロシーを押し退けると投げ捨てたコートを拾ってハンガーにかけた。
「いいから少し静かにしろ。ほら、水飲め」
「自分じゃ飲めなーい。すみちゃん、飲ませて。口移し」
「馬鹿言ってろ」
 そう住吉に突き放されても、ドロシーは依然愉快そうに笑いながらコップの水を一気に飲み干す。それから視線を今度は僕の方へ向けてきた。何か来るな、と警戒すると、案の定抱き着いて来て振り回された。
「クリスちゃんも、あけおめー! 今年は良い年になったね!」
「まだ年は明けてないよ」
「ふふん、分かってないわねえ。日本はね、盆暮れ正月は早いほど良いのよ」
 本当に? そう住吉に目で問いかけると、住吉は呆れた顔で首を振った。
「お正月になったら、お餅食べようね。私ね、チーズ挟んで食べるのが好きなんだ」
「お餅にチーズ? おいしいの?」
「おいしいのよう。多分ね、お餅と乳製品は相性が良いのよ。だから今年は、ヨーグルトにも挑戦しようと思うの」
「いや、それはさすがに……」
 おいしいかどうかはともかく、ドロシーは本気でやる意欲を見せている。止めても駄目だろうし、食べるまで納得はしないだろうから、ドロシーの分はきちんと分けて用意した方が良さそうである。
「あ、そうだ! ねえ、すみちゃん。実はね、今回は振袖を用意したのよ。結構高かったんだから」
「振袖ってなあ。着付け出来るのか?」
「大丈夫、実は着付け教室に半年も通ってました」
 えっへんと胸を張るドロシー。半年というのは妥当な時間なのか分からないけれど、ともかく自信はあるらしい。
「そういう訳で、初詣にはみんなで行こうね。日本の伝統行事でしょ?」
「初詣って何?」
「お正月にね、神社に行ってお祈りをするのよ。それから、おみくじを引いて甘酒を飲んで帰るの」
 甘酒は知らないけれど、おみくじは知っている。小さな引き出しが沢山並んでいて、その中の一つを開けて中にある紙の包みを取り出す。それを広げると、吉とか凶とか運勢を表す言葉が書いてあるのだ。
「初詣は明日行くの?」
「そうよう。だから、クリスちゃんは寝坊しないように早く寝なさいね」
「えー、今日はもっと起きてるんだもん」
 第一、ドロシーの方がいつも時間にだらし無いはずだ。寝坊に気をつけるならドロシーの方だ。そう口を尖らす。
「俺は行かんぞ」
 その時だった。不意に住吉が渋い表情をして口を開く。僕は意外に思った。日本の伝統行事なら住吉は必ず行くと思ったからだ。
「え、どうして?」
「神様が神様を詣でてどうするんだ」
 なるほど、と僕は手を打った。神社に奉られているのは日本の神様だし、住吉も日本の神様だ。神様が神様にお祈りをするなんて、確かにおかしな事である。お祈りをするのは、普通は人間か別な異族だ。
「形だけじゃない、形だけ。去年は近くまで一緒に行ったじゃない」
「じゃあ今年もそこまでだ」
 眼として言い張る住吉。住吉の性格は頑固だから、一度こうと決めてしまったらなかなか変える事はない。きっと明日の初詣も途中までしか一緒に行けないだろう。僕としては三人一緒に行きたいと思っていたから、何となく残念だ。
「すみちゃんの頑固者ー。でも、そういう所が好きー」
「いつまでも馬鹿言ってるな。ほら、スーツも早く着替えろ。しわが付くぞ」
 いつもの三人での団欒になり、ようやく年の瀬を迎えられる雰囲気になったと僕は思った。三人だと一番賑やかになるのに、何故か一番落ち着ける雰囲気になる。こういうのが家族というものなのだろう。その記憶も無い僕は、この時間を大切にしたいと思う。
「大晦日ってどこも特番ばかりねえ。途中から見る人のこと、考えてくれてないんだから」
「みんなでかじりついて見て、気が付いたら歳が明けてたなんてなったら笑えないだろ。軽く流すくらいが調度良いさ」
「でも、こんな日まで仕事って大変よね。だからみんな、妙に明るいのかしら?」
 大晦日は特番が多く、いつも見ている番組が無くなったり、知らない芸能人ばかり出ていたり、僕にテレビは退屈で仕方なかった。もっとも、そのためにあらかじめ図書館から沢山本を借りて来たのだから、テレビで退屈しても困る事はない。
 テレビはほとんど流すだけで、僕達三人はコタツで談笑にふけった。住吉とドロシーはお酒を、僕は特別に買ってもらったペットボトルのサイダーを飲んでいる。おつまみとしてお菓子も幾つか並び、いつもより沢山食べても咎められる事はなかった。何事も、今日は大晦日だから、という理由だけで許されている雰囲気である。こういう日がもっと沢山あればいいのに。そう僕は思った。
「おっと、十一時過ぎたな。クリス、まだ眠くないか?」
「大丈夫。でもちょっとお腹空いた」
「そろそろ頃合いだな、じゃあ年越し蕎麦にするか」
 ちょっと待っていろ、と住吉は台所へ向かっていく。昨日の買い出しで、住吉は近所の蕎麦屋さんから生蕎麦を買っていた。年越し用にと言っていたが、きっとこのために買ったのだろう。
「ねえ、年越し蕎麦って何?」
「んっとね、蕎麦って細長いでしょ? それにあやかって、来年も細長い人間関係でいましょうねっていう風習なの」
「細長いって、何だか寂しい気もするなあ」
「そうよね。細長くても、熱くて濃厚な関係がいいわあ」
「うどんなら太くて長いよ。それに煮込みうどんにしたら、熱いし味も濃い」
「そっか! クリスちゃん、天才! じゃあ、来年は煮込みうどんにしましょう」
 そんな事を話していると、やがて台所の方から香ばしい鰹だしの匂いが漂ってきた。蕎麦は茹でた蕎麦に熱い鰹だしのつゆをそそいで出来上がる。この香りは調度鰹だしを温めているのだろう。僕は蕎麦が意外と好きで、特に月見蕎麦が中でも一番好きだ。つゆと掻き交ぜた卵が混じった所をすすると最高に幸せである。だけど、この食べ方は邪道なのらしい。
「具はどうする? かき揚げは三人分買ったが、他にはわかめとか茸ぐらいならあるぞ」
「私は葱たっぷりがいい。白胡麻もあるかな?」
「僕は卵を入れる!」
 年越し蕎麦が出来上がったのは、日付の変わる午前零時の十分前だった。夕食から随分経っているからお腹も空いていて、かき揚げのついた月見蕎麦はとても美味しそうだった。最後に漬物を用意して、早速三人で手を合わせ食べ始める。
「どうだ、茹で具合は?」
「うん、ばっちり。さすがすみちゃん、何でもそつ無いわねえ」
「お前は来年こそ少しは何か出来るようになれよ」
「そうねえ。それじゃあ、ゆで卵を作れるようになるわ」
「電子レンジは絶対使うなよ」
 ドロシーは、うふ、と可愛い子ぶったわざとらしい笑みを見せる。何かごまかすようなその仕種、既に一度やってしまっているのかもしれない。何と無くその光景が目に浮かぶようだ。
「クリスちゃんは、来年こそ記憶が戻ればいいね。いつまでも何も分からないままじゃ辛いもん」
「うん。でもね、ゆっくり思い出せればいいかなって思うんだ。僕は今の生活が楽しいから」
「ホント、そういうところ可愛いんだから。大丈夫よう、来年もママがちゃんと守ってあげるから」
「ママ、お酒臭いよ」
 そうじゃれあっていた時、不意にアパートの外から大きなびりびりと響く音が聞こえて来た。
「あ、鐘の音だ。近くにお寺あったかな?」
「あれはね、除夜の鐘っていうの。あれが百八回鳴る前に願い事を三回唱えると、それが叶うのよ。『来年こそウェディングドレスが着れますように』」
「本当に? じゃあ、『記憶が戻りますように、記憶が戻りますように、記憶が戻りますように』」
 そんな僕達を見ながら住吉は、苦笑いしながら溜息をついた。
「ドロシー、それは違うぞ」