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 漠然とした悪いものを何かに例えるのはどこの国にもある事だ。日本でそれは、鬼と呼ばれるものに当たる。病気や不運を運んで来るとか、人柄が悪い方へ変わった時に取り付いているとか、そんな使われ方だ。怖いという意味でも使われるけれど、どの道あまり良い意味では無い。
 今日はその鬼の異族と会った。当然こういう時代だから日本にも鬼は沢山実在しているし、また人々からは厄介者のように扱われているようだ。鬼を追い払えば幸せになる、そういう言い伝えが昔からあるせいもある。
 鬼は、自分の不運はどうやって払えばいいのだろうか?
 ふとそんな事を思って訊いてみたけれど、住吉には笑われてしまった。



 二月が近づくと商店街やコンビニでは、節分の二文字を目にするようになった。日本は毎月何かしら行事があるけれど、今月はこれなんだそうだ。
 三日はその節分になる。誰かが鬼役になり、それに対して掛け声と共に豆をぶつける。そうする事で家の中から鬼がいなくなって幸せになるというものだ。図書館から借りて読んだ本に時々鬼の事が書かれていたけれど、肌の色が赤だったり青だったりする違いはあるけれど、どれも屈強な体格をした怖面だった。豆ぐらいぶつけられてもびくともしないと思うのだけれど、これは風習なのだから何かしら言い伝えが元になっているのだろう。
 図書館から帰って来ると、今日はドロシーの他に住吉も帰ってきていた。今日の仕事は早上がりだったようである。
「お帰り。昼飯は食べたか?」
「うん、途中でお弁当食べて来たよ」
「じゃあ、いつものように容器は台所に浸けておいてくれ」
 いつものようにお弁当の包みを解いて容器を水へ漬ける。背丈の問題でシンクの中は良く見えないけれど、大体の位置関係は分かっているから問題は無い。ただ、いつもこの時に思うのが、手が届かなくてもやれるような事をドロシーは何故やらないのか、という事だ。単純に面倒臭いからだとは思うけれど、それだけの理由で動かないのも不自然な気がする。
 茶の間では住吉が新聞を広げ、ドロシーは寝転がりながらテレビを見ている。そのいつもの光景に、僕は図書館で借りて来た本を持ちながら加わった。今日借りて来たのは日本の動物図鑑である。野生動物を中心に写真が沢山並んでいるのだけれど、野生動物の写真を撮るのは実は難しい事なのだそうだ。そういう意味で、動物園で見るのとはまた違った面白さがある。特に最近はこういった写真や図鑑のものばかり借りる傾向にある。
 一つのコタツでそれぞれ思い思いに過ごす昼下がり。そんな中、ふとドロシーがテレビを見ながら口を開いた。
「今日って節分だよね? ねえ、すみちゃん。うちでも豆撒こうよ」
 すると住吉は軽く溜息をつき首を横へ振った。いつもの、面倒な事を言い始めた、という風な素振りである。
「別にいいだろ、そんなのやらなくても。第一、後片付けが大変なんだぞ。どうやって撒いた豆を拾うつもりだ」
「ちゃんと拾うからさー。新聞とか敷いてやればいいでしょ? それに、こういう行事はちゃんとやらないと、クリスちゃんに良くないわ。子供が覚えないと、後年にまで続かなくなっていつか途絶えてしまうんだから」
 いつになく真顔で主張するドロシー。まさかドロシーから伝統について正論が聞けるとは思いもよらなかった。きっと住吉も僕と同じ心境なのだろう、苦笑いしている。
「ああ、分かった分かった。んじゃあ、準備するか。とりあえずこの辺り片付けて、新聞紙敷くぞ」
「やん、すみちゃんったら話が分かるう」
「どうせやるまで続けるつもりなんだろ」
 じゃれつくドロシーに、鬱陶しがる住吉。そんないつもの光景に僕は、相変わらず仲が良いなあと肩をすくめる。
「俺達は部屋を準備するとして、クリスは節分用の豆を買って来い。どこかしらの店で売ってるだろう」
「そうそう、鬼のお面もついている奴にしてね。せっかくだし、その方が気分出るでしょ」
 住吉にお金を貰って僕は早速商店街へと出かけた。部屋の片付けよりもお使いの方が楽だと思ったので、内心ラッキーだと喜んでいた。コタツを動かしたり新聞紙を敷いたり、想像しただけでも面倒に思える。
 東京は二月になっても相変わらず寒さは厳しく、雪が降るどころか雲一つ無いほど晴れ渡っていても耳が痛くなるほど空気が冷たい。まだ夕方にも差し掛かっていない時間で太陽は高いのだけれど、朝とさほど寒さは変わらないように思う。でも、こういう寒さも何ヶ月も続いていると案外慣れてくるもので、僕は時折耳を手のひらで覆い温めながら商店街まで向かった。
 歩き慣れた商店街を、店先を眺めながら歩いていると、すぐに節分セットと大きく書かれた広告を見つけた。出していたのは乾物屋で、ピーナッツやおかきが並んでいる中に売り出しているセットがあった。片手で抱えるほどの大きなビニールの袋に、緑色のごつごつした豆がびっしりと入っている。そして袋の下に紙で出来た鬼の面がオマケのようについていた。僕はそれを一つ買い、両手で胸に抱えながらアパートへと引き返した。
 袋の中の豆は触った感触が意外と硬く、見た目も白い粉を吹いた緑色のためあまりおいしそうには見えなかった。多分投げるために作ったものだから、味はどうでも良いのかもしれない。これを投げて、投げ終わったら拾い集めるのが節分だそうだけど、良く良く考えてみると何だか不毛な作業のように思えて来た。
「あっ」
 商店街を抜けて少し道を歩いた時だった。不意に角から曲がってきた人にぶつかり、僕はバランスを崩して前につんのめる。咄嗟に手をつこうとしたけれど、抱きかかえていた豆に気づき、手を離そうか離すまいか一瞬躊躇ってしまった。しかしそれも束の間、横から間に腕が入って来て僕の体はそれに支えられ何とか転ばずに済んだ。
「おっと、ごめんなさい。大丈夫かな?」
 そう声をかけてくれたその人、袋を抱え直しながら見上げると、優しげな声には不釣り合いなほど大柄で厳しい顔をした人だった。肌の色は赤っぽく、頭には帽子を被ってはいるけれどはみ出ている髪の毛はかなりの癖っ毛なのが分かった。何となく僕は、鬼の異族の人だと直感する。
「はい、ありがとうございます。大丈夫です」
 その人は、無事なら良かったと優しげに微笑んだ。
 鬼とは確か怖い生き物だと日本では昔から言われていた。そんな人にぶつかったのだからただでは済まないと一瞬思ったけれど、子供の自分にも優しげに接する当たりこの人は大丈夫だろうと安堵する。本当に怖いのは、あくまでお話の中に出て来る鬼だけなのだろう。
「ところで、その豆はおやつにするのかな?」
 ふと彼の視線が僕の抱えている袋に向く。物が物だけに思わずどきりと胸が高鳴るものの、優しそうな人だからきっと大丈夫だろう、そう自分を落ち着ける。
「いえ、これからうちでみんなで節分をしますので」
「へー、そうなんだ。みんなで?」
「はい、僕も入れて三人です」
「投げるんだ?」
「はい?」
「だから、投げるんだ? 人に向かって」
「い、一応、鬼役の人に」
「本当は鬼にぶつけたいんだよね。そうすれば幸せになれるなんて、ただの迷信なのに」
 自分の喉がぎゅっと縮んでいくのが分かった。表情こそ優しげなままだったが、口調が僅かに刺々しくなっている気がする。いや、実際に責められているのだ。それも自分のような子供相手に。理屈も少し理不尽なようにも思う。だから下手な事は言わない方が良さそうである。
 ふと、前に図書館で見つけた鬼の出て来る童話集を思い出す。お話の中の鬼が一番襲っているのは子供ではなかっただろうか―――。
 俄かに緊張する僕、するとその人は突然雰囲気を一転して和らげた。
「いいんだよ、いいんだよ。伝統行事だからね。うん、そういう事を続けるのはとても大事だ」
 微笑みながら僕の頭をそっと一撫でする。その優しさが僕は余計に不気味に思った。怖いはずの人が温和な態度を取るのが恐ろしい、という事を初めて実感したのだろう、ただ何も答えずにひたすら頷いた。
「さ、早く帰って始めなさい。豆が来ないといつまで経っても始められないからね」
 そう言いながら彼は半身になって僕に道を開ける。僕は一度会釈して通り過ぎた。
「それじゃ……さようなら」
「うん、さようなら。いつか鬼達で革命起こして鬼がぶつける立場になってやるから、それまではしっかり楽しんでね」
 別れ際にそんな事を言われ、僕は一目散にアパートに向かって駆けていった。どこまで本気なのか、僕が子供だから単にからかっただけなのかもしれないけれど、こういう人にはあまり関わらない方が良いと、住吉だけでなくドロシーも口を揃えて言っている。だからやっぱり走って逃げる、それが最善だと僕は思った。
「ただいまー」
 息を切らせながらアパートに帰って来ると、既に部屋は綺麗に片付けられて新聞紙が敷き詰められていた。その隅に住吉が一人で憮然とあぐらをかいて座っている。ドロシーの姿は無かった。
「おう、おかえり。随分早かったな」
「帰り、走って来たから。ドロシーは?」
 すると住吉は、あっちだと眉を潜めながら隣の部屋を顎で示す。すると、まさにそのタイミングで襖が開きドロシーが現れた。
「おかえりー。じゃあ、私が鬼役やるわよー」
 そう言うドロシーは何故か水着姿だった。この寒い時にそんな薄着をするなんて、そもそも水着なんて何故持って来ているのか、そういう疑問と一緒に小首を傾げてしまった。
「バカ、どこにそんな卑猥な鬼がいるか」
「でも、鬼って腰みのだけなんでしょ? さすがに私も、下だけじゃ恥ずかしいし」
「そこまでこだわらんでいい」
 溜息をつく住吉を他所に、早速ドロシーは僕の買ってきた豆の袋からオマケの面を取ってゴムを通し始める。あくまでこの格好でやるつもりらしかった。
 ついさっき鬼の異族と会って来て、普通にこの季節なりの厚着をしていたよ。そうドロシーに教えてあげようとしたけれど、普段周囲を振り回す時と同じ乗りのような気がしたので、言うだけ無駄だとやっぱりやめた。