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 ずっと自分の事について分からなかったのだけれど、今日ようやく手がかりを見つけられた。いや、正確に言えば自分で見つけたのではなくて、他人からひょいと出されたのだ。
 自分の記憶が無い事を不安に思って眠れない訳ではなかった。日常でぽっかりと穴が空いたような不安を覚えている訳でもなかった。ただ、指先に小さな棘が刺さったように、いつまでもずっと気になって仕方の無い、そんな事なのだ。僕にとって一番大切なのは、今の住吉とドロシーとの生活で、過去の事はおまけより幾分上等なものぐらいにしか思わない事にしたのだから。
 それでも失くしたとばかり思っていた事が、一欠けでも戻ってくるのは嬉しい事のはず。僕はずっとそう思っていた。けれど、正直な今の感想は、やっぱり知らない方が良かった、そう思うのだ。



 今日は住吉は仕事が休みで朝からうちに居るのだけれど、何か用事があるのでどこかへ遊びには連れて行ってくれなかった。それで仕方なくいつものように図書館に行こうとしたら、玄関の所でドロシーが付いてきた。
「ねえ、クリスちゃんはまた図書館?」
「そうだよ。ドロシーはどこか出かけるの?」
「すみちゃんが遊んでくれないんだもん。用事があるからって。まさか嘘ついて、別な女を連れ込むつもりじゃないかしら」
 珍しく眼差しが険しくなるドロシー。こういうドラマをドロシーは良く見ているけれど、きっとその影響だと思う。ドロシーの言っている事の大半は、いつも根拠が無いのだ。
「住吉はそんなに器用じゃないと思うよ」
「でもねえ。すみちゃんっていいオトコだから、悪い虫がつかないとも限らないし」
 ドロシーはそれに当てはまらないのだろうか? 一瞬そんな事を思ったけれど、当然口にはしなかった。そもそも、子供と盛り上がるような話でもない。
「じゃあクリスちゃんは、ママとお出かけしましょうか」
「えっ、どこか行くの?」
「とりあえず、お買い物して御飯食べてお買い物してお土産を買って帰るの」
「買ってばかりだね」
「楽しいじゃない、そういうのって。クリスちゃんにも可愛い服買ってあげる。すみちゃんはそういうとこのセンス無いんだもの」
 ドロシーの言う可愛いにはいささか避けておきたいニュアンスはあるものの、一人で図書館でじっとしているよりはドロシーと出掛けた方が楽しいはず。僕は返す予定だった本を下駄箱の上に置き、早速ドロシーと出掛ける事にした。
 普段みんなで出掛ける時は住吉の車に乗って行くのだけれど、ドロシーは車の運転は出来ない。それで移動は電車やバスになるのだが、東京はあちこちに路線が敷かれているから車が無くても移動で困る事はほとんど無い。だから僕も、電車賃さえあれば相当の遠出も出来る。テレビで取材されたような場所にだって、本当は自分の足でも行けるのだ。しかし僕はいつも同じ路線の駅間ばかり往復している。それは単に用事が無いせいだけではなく、この複雑な路線網を乗りこなす自信が無いからだ。だから、当たり前のように乗りこなしているドロシーには、一種の羨望を抱いている。いつかは自分もこんな風に乗りこなしたいものだ。
 ドロシーに手を引かれながら、電車を幾つか乗り継いでいく。次々と見たこともない景色、駅構内、電車が現れ、僕は終始キョロキョロと落ち着きなく見回していた。多分、ドロシーに手を引いて貰っていなければ、本当に迷子になってしまったと思う。
 やがて最初の目的地である銀座に電車が止まった。地下鉄に乗ったのは初めてで、その駅に降りるのも初めてである。昼間なのに日が射さない窓の無いホームは、どこか時間の感覚を狂わされる光景だった。そんな中をまたドロシーに手を引かれ出口に向かって歩いていく。地下鉄の駅は特に入り組んでいるから、慣れていないと大人でも迷子になるそうだ。
「住吉は今日は何の用事があるんだろう?」
「さあねえ。誰かと会う約束があるって言ってたけど? そうそう、彼岸がどうとか言ってたわ」
「彼岸って?」
「日本のお葬式の一種みたい。その期間は全国的に御墓参りするそうよ」
 けれど住吉は、特に御墓参りらしい支度はしていなかった。それに、どうして御墓参りで他の人と会ったりするのだろうか。共通の誰か知人の御墓の事なのだろうか。
 そんな疑問も程無く、僕はいよいよドロシーに連れ回され始めた。まずは銀座から始まって、渋谷、新宿と続き、池袋で遊んだ後、上野でお土産を買う。まさに環状線沿いを一周する、無茶なお出掛けである。各駅に降りているんじゃないだろうかと思えるドロシーの行動力もそうだけれど、どこへ行っても何かしらの店を知っている行動範囲が凄いと思った。きっと日本に来てから今日までずっとあちこちで遊び回っていたからだろう。
 ようやく家路についたのは、太陽が傾いて辺りが薄暗くなり始めてからだった。今の季節はまだ日の落ちるのが早い。もう少し帰りが遅くなると、ほぼ夜と同じくらいになる。繁華街は明るいだろうけれど、アパートの近くはそうでもないのだ。
「ただいまー」
 いつものように靴も揃えず入っていくドロシー。僕はそれを揃えながら自分の靴を脱ぐ。ふと下ろした視線の端に見慣れない靴を見つけた。どうやら、まだ来客中のようだ。けれどドロシーは既にいつもの調子で行ってしまったから、せめて自分だけでも静かに居間へ入る。
「おう、お帰り。早く着替えて手を洗って来い」
 居間に入ると、いつもの口調で出迎える住吉ともう一人、件の来客がコタツを挟んで向かい合っていた。
「こんにちは、お邪魔しています」
 そう会釈をされ、僕もぎくしゃくと同じように会釈をして返す。僕はすぐに気構え警戒心を持った。その来客は自治会長さんだったからだ。
「ねえ、すみちゃん。お土産買ってきたから、お茶にしましょう。会長さんも御一緒に。クリスちゃん、お茶お願い」
「なんだ、騒々しい。大体もう夕飯時だぞ」
「いいじゃない、ちょっと食べるくらい」
 そう言って二人が何の話をしていたのかも構わず、ドロシーは割って入るようにして買ってきたお菓子を広げる。上野で買った羊羹と壊れあられだ。こうなっては後は振り回されるのがいつもの事である。とりあえず僕は服を着替えて手を洗い、言われた通りに四人分のお茶を用意した。
「すみませんね、いつもこんなんで」
「いえ、構いませんよ。賑やかで結構じゃないですか」
 自治会長さんはにこにこしながらお茶をすすり、羊羹を一欠けら口へ運ぶ。僕もお茶を飲みあられを食べながらも、意識して会長さんの挙動に注意を払っていた。今の所、特にこれと言って不審な所は無かったが油断をしてはならない。僕の脳裏には未だに、以前いきなり詰め寄られた時の光景がはっきりと焼きついているからだ。
「ねえ、会長さんと御墓参りにでも行くの?」
 和やかにお茶を飲んでいたその時、唐突にドロシーがそんな事を住吉に訊ねた。脈絡の無い質問だったが、微妙な反応を見せたのは会長さんだけだった。
「御彼岸の事でも言ってるのか? いや、今日のは別に違うぞ。まあ、その何だ」
「何? どうかしたの?」
「まあ、色々あるんだよ」
 住吉は珍しく答えが歯切れ悪かった。子供の僕にでも分かる、何かを隠しているような、そんな口調である。当然ドロシーにもそれは伝わっていて、不審そうな視線でじとっと睨み付ける。そんな二人の様子を自治会長さんは微苦笑しながら見ていた。
「いやいや、何も悪い話じゃありませんよ。ただ、ちょっと時期をちゃんと見計らった方が良さそうなだけですから」
「時期って?」
「ええ、まあ、その」
 住吉と同じく歯切れの悪い口調の自治会長さん。しかし、ふと会長さんは微苦笑しながらも一瞬僕へと妙な視線を向けてきた。僕は何かをするつもりだと膝を浮かせかけたが、すぐに視線は二人の方へ戻ってしまった。
 一体何だったのだろうか? そう僕は不思議に思うけれど、別段追求するような気にはならなかった。それよりも僕には住吉の歯切れの悪い妙な返答の方が気になった。住吉には既にドロシーが絡み付いて詳細な説明を求めているけれども、普段ならうるさいと一言で切って捨てるというのに今日に限っては憮然とした表情で腕組みをし硬直している。住吉がこんな態度に徹するのは初めての事だけに、何を誤魔化そうとしているのか、どうしても気になる。
「それでは、私はこれで。どうも、ごちそうさまでした」
 そう言いながら立ち上がった会長さんは、最後まで煮え切らない態度のまま帰ってしまった。はぐらかすために逃げていった、そんな印象を持ってしまう。そして当然その煮え切らない部分は、残る住吉に向けられる。
「ねえ、何だったのよう、もう」
 当然のようにドロシーが住吉へ絡む。住吉は面倒臭そうな表情はするものの、いつものように語気を強めて追い払うような事をしなかった。やはり歯切れ悪くうんうんと唸るばかりで一向に埒があかない。ドロシーも苛立っている訳ではなさそうだが、しつこく住吉に付き纏い服を掴んで体を揺らす。
「あら?」
 不意に動きを止め視線を傍らへ落としたドロシー。おもむろにそこへ手を伸ばし取り上げたのは、一冊の漫画だった。たまにドロシーが自分で買って、うちに読み捨てていったものの一つかと思った。しかし、何故かそれを見た途端に住吉は血相を変えて、慌ててそれを奪い取ろうとする。しかしドロシーの方が僅かに早く、体を入れ替えながらかわして立ち上がった。
「サ、シ……ンマ? 日記? 難しい漢字ねえ。聞いた事無いタイトルだわ。それに随分古いみたいだけど」
「待て、それをここで見せるな」
「なによう、すみちゃん。いつも漫画なんか子供の読物だって言う癖に」
「そうじゃない。いいから早くそれを返せ。物事には順序がある」
 住吉が血相を変えるのも珍しい事だし、これほど余裕の無い表情も初めてではないかと思う。必死の住吉と興味本意のドロシー、僕はどちらにどう付けばいいのか分からず慌てふためいた。どうして漫画一冊でこうも騒ぎになるのかまるで理解が出来なかった。
「ちょっとだけ見せてよ、ちょっとだけ。すぐ返すから」
「だから今はやめろと言っているだろ。いいから返せ!」
「いいじゃない、少しくらい。えーっと、なになに」
 そうしている内に住吉はドロシーへと掴みかかり強引に漫画をもぎ取りに行った。しかし二人はそのまま縺れながら畳みの上に転んでしまう。
「やだ、すみちゃんったら。クリスちゃんの前で」
「いい加減にしろ、ふざけている場合じゃないんだ」
 住吉はどうにか漫画の端を掴むと、そのまま力任せに引っ張る。
「あっ」
 しかし、相当慌てているせいか、どうにか引ったくった漫画は手の中からすっぽ抜けてしまう。漫画は僕の方へと飛んで来て、咄嗟にキャッチする。漫画は二人が倒れ込んだ拍子に折り目がついてしまったのだろうか、手に持っても自然と途中からページが開き放しになる。だからそのつもりでは無くても中が見えてしまった。
「クリス、見るな! こっちに寄越せ!」
 すかさず住吉に怒鳴られ、僕は逆に反射的に開いているページを思い切り読んでしまった。
 そして次の瞬間には、全身が石のようにそのままの姿勢で硬直してしまった。
 開いたページに載っていたのは、真っ直ぐな金髪、肌は雪のような白、目は左右色の違う金目銀目、おどおどとした弱気な幼い顔の少年の絵だった。