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 子供と呼ばれる事を、僕はあまり気に留めていなかった。事実僕は子供なんだし、住吉がいないと御飯を食べる事も出来ない。そういう人は大人でも世間では子供と揶揄される事も知っている。だから僕は、自分がそう呼ばれる事は当たり前のように思っていた。
 けど、異族なのに子供というのはどうなのだろう。異族は、大人の姿でも発生してからそんなに年月が経っていない事もある。それは果たして大人なのだろうか、子供なのだろうか。
 僕が自分を子供だと思う理由はもう一つある。そもそも自分は、世の中の事を何も知らないからだ。



 三月になり、テレビでは旅行のコマーシャルがやたら増えた気がする。その理由をドロシーに訊いてみると、学生が休みを使って出掛ける事が一番多い月だからだそうだ。僕は旅行をしたことが無いし遠出は一人では出来ないから漠然と怖い事のように思っているけれど、いつかはみんなで行ってみたいとも思った。
 今朝も住吉は普段通り新築地へ早朝から出かけている。ドロシーは僕が起きてくる前からごろごろと寝転がりながらテレビを見ている。僕はいつものように用意された朝御飯を、ドロシーとそんな会話をしながら食べ、台所へ片付ける。それからいつものように図書館へ出掛けた。
 駅までの道のりは相変わらず人の流れが多く、駅に着いて電車に乗れば反対側の路線の通勤ラッシュが見る事が出来る。程なく目的の駅で降り、図書館までほぼ真っ直ぐの道を一人で歩く。通い慣れた道ではあるけれど、街路樹や公園などの風景がいつも変わっていくから季節感があった。
「やあ、おはよう。今日も早いね」
 図書館に到着し、本を返却棚へ出し、早速向かうのはいつもの閲覧室。その前にいる図書員の人は今日も笑顔で出迎えてくれる。元々あまり人が来ない場所だから、毎日のようにやって来る僕とはもう顔馴染みの間柄である。
「いつもと同じくらいですよ」
「子供と年寄りは朝が早いからかなあ。僕なんて毎朝凄く急いでるつもりなんだけど、実はさっき来たばかりなんだよね」
 そう笑う図書員の人に僕も合わせて笑う。
 普通の大人は朝起きるのは苦手らしい。僕にとってはこの時間はたいした事ではないのだけれど、やがて歳と共に苦手になっていくのだろうか。
「今日も新聞漁りをするのかな?」
「はい……、あ、えと、ちょっと見たい本があります」
「何の本かな? 僕がすぐ調べてあげるよ」
「実は、漫画なんです」
「漫画? ここは図書館だから、漫画本は置いてないなあ」
「いえ、そうじゃなくて。その、漫画と異族についての本があればと思って」
「どうしてまたそんな本を?」
「実は、僕が……」
 そう言いかけ、僕は言葉を濁してしまった。何となく口に出す事に躊躇いがあった。別段僕が負い目に思う事では無いはずなのだけれど、どうしても真っ向から口には出来なかった。
「まあ、何か事情があるなら探してみるよ。ちょっと待ってね」
 図書員の人は目の前の端末をぱちぱとと操作をし始める。この図書館には相当な数の本があり、それらがどこにあるのかといった情報をコンピューターで管理しているそうだ。検索用の端末は誰でも触れるのだけれど、使い方が僕にはちょっと難しい。
「お、あったあった。これなんかそうじゃないかな。『異族と現代文化』、近代史のコーナーにあるよ。下の階に下りてすぐ右だよ」
 僕はお礼を述べてその場所へと駆け足で向かった。
 近代史のコーナーはほとんどが専門書ばかりで、どの本棚も高く広く、そこに並ぶ本も背表紙が厚くてとっつき難い外観ばかりである。高い本棚の間を歩くと、まるで上から見下ろされているような気がして、どこか威圧感があった。
 目的の本はあいうえお順ですぐに見つかった。意外と異族についての本は少ないのか、ざっと棚を眺めた限りでは異族を扱っているらしい本はほとんど見当たらなかった。まだ異族の問題というのは日本では始まったばかりだから、本を書くほど煮詰まってはいないのかもしれない。
 コーナーの近くにあった無人のソファーに座り、取り出した本『異族と現代文化』の最初のページからめくってみる。それからしばらくの間、一ページずつじっくりと読み進めてみた。しかし、段々と本の内容が自分の目的とは違っている事に気づき始め、半分もめくった所で読むのを断念してしまった。僕は異族と文化の関係が知りたかったのだけれど、本に書かれているのは異族が今の日本の文化に対してどう溶け込むのかという事ばかりだった。
 その本を戻した後、他に何か有力なものは無いかと片っ端から本棚を物色し何冊か流し読みしてみた。しかし、どれも異族については漠然と考えを書いたようなものばかりで、僕の知りたい事からはずっと遠かった。やはりそんな本は無いのかと落胆している内に正午を告げるチャイムが鳴り、僕は出した本を全て戻して帰る事にした。
 帰り道は、やはり気分があまり明るくはなれなかった。探し物が見つからないといった、自分が思うように物事が進まない時、怒る人と悲しむ人と二通りあるという。僕はその後者で、正に自分の知りたい事が思うように見つからなくて悲しい気分だった。実は、今日の資料探しは半分は思い付きで、見つかればラッキーだというぐらいにしか思っていなかった。だけど、この通り、僕はまるであてが外れたように落胆している。本当は異族の事などほとんど考えなくて、今日もいつもと同じように少し前の新聞記事を読んでから、写真つきの図鑑を借りて帰るつもりだったのだ。けれど、ちょっとした気まぐれから目を背けていた事実を正視させられ、気持ちが沈みこんだ。僕は心の底から気にしているのだ。自分がどうやって存在した異族なのかを。ただ、それを気にしていないという振りをしていたいだけで。
「ただいま」
 アパートに戻るとドロシーが朝と同じように寝転がってテレビを見ていた。コタツの中にのそのそと潜り込んで動かない姿はまるで亀のようだと僕は思った。
「おかえり。お昼は食べたの?」
「うん。お弁当、途中で食べて来た」
 服を着替えていつものようにお弁当箱を台所に持って行きシンクへ漬ける。その時、ふとシンクの隣に見慣れないどんぶりが置いてあるのを見つけた。多分、ドロシーがお昼に出前を取ったのだろう。ただ、驚く事にそのどんぶりは洗ってあった。前に住吉に言われた事を実践したのだろうか。
 居間に戻ると、ドロシーは相変わらずダラダラとテレビを見ている。僕はコタツの自分の席に座って読みかけの本を開いた。今日は実りのある本が見つからず気分も落ち込んでいるから、その分を挽回したいという気持ちもある。
 しばらくお互い無言のままそれぞれの事に終始していると、不意にドロシーが口を開いた。
「ねえ、クリスちゃん」
「ん、何?」
 ドロシーが指差すのはテレビの画面。そこにはニュースで何かの事件の特集をしていた。僕は反射的にニュースの内容を追う。
 それは、先日に大勢の警官隊と異族が国会議事堂の前で衝突した事件の映像だった。異族は全て日本の異族で、神様だったり妖怪だったり、顔触れには統一感が無い。ただ、主張はみんな同じである。人外異形基本法の即時撤廃。異族の存在を許容するのは日本を悪い方向へ歪める、そんな中身だった。
「自分達も異族なのに。なんかおかしいね」
「そうね。でも、異族がいる事ってやっぱり自然じゃないのかも」
 いつになくドロシーの口調が神妙だった。表情も普段の緩さが見られない。台所のあのどんぶりといい、何かあったのだろうか。僕が知らない所で、また住吉とケンカしたのだろうか。
「ねえ、御菓子買って来てるの。食べない? すみちゃんには内緒で」
「うん、食べる。じゃあお茶淹れるね」
 僕は早速茶箪笥から湯飲みを取り出して並べ、急須に茶葉とポットのお湯を注ぎ蒸らす。毎日のようにしている自分の仕事だから、何となく感覚だけでどれぐらい蒸らせばおいしいのかも分かる。それが密やかな一つの自慢でもあった。
 時折ドロシーはこっそり御菓子をくれる。僕はそれが好きである。今日ドロシーが買ってきたのはコンビニで売っている普通の御菓子だった。けれど、僕の御小遣いではなかなか手が出せない高い種類ばかりである。だからいつも以上にどれから食べようかと目移りしてしまった。
「ねえ、クリスちゃん」
「ん、何?」
 最初に手をつけたのはチョコレートのかかった生菓子で、僕はそれに思い切りがぶりと噛み付いた。そんな時だった、ドロシーがまたしても神妙な様子で僕に訊ねてきた。
「明日も図書館に行くの?」
「多分。何も予定が無ければ」
「じゃあ、御昼御飯は一緒に食べよ? 別々に食べるのって変じゃない」
 ドロシーの提案は初めて聞くようなものだった。今までそんなことを気にした事はなかったはずなのに。ドロシーは人に合わせる事は無く、自分に合わさせるタイプである。だから僕は物珍しさと素直な驚きを感じた。
「いいよ。僕、十二時過ぎくらいには帰って来るから、そうしよう」
「それじゃ決まりね。すみちゃんには、お弁当じゃなくて普通の御飯を用意して貰いましょう」
 お弁当は手間がかかるそうだから、住吉にはありがたい事かもしれない。そう僕は思った。
 考えてみたら、今まで御昼御飯は一人で食べる事が多かったように思う。多分ドロシーも一人で食べていたのだろう。ドロシーはああいう性格だから別段何とも思っていないだろうと想像していたけれど、やっぱり一人は寂しいのかもしれない。
 そんな想像をしていていると、急にドロシーは立ち上がって僕のすぐ隣に座った。どうしたのと問いかけるように見上げながら視線を向けると、ドロシーは僕を背中からぎゅっと抱き締めてきた。
「急にどうしたの?」
「ううん。ただ、こうしてると安心するのかなあって」
 ドロシーは僕の頭に額をつけ、そのまま口を閉じてしまった。茶化したり出来ない雰囲気で、僕は御菓子を食べる手も止めてそのままじっとドロシーのしたいようにさせた。いつもは凄く邪魔臭いと思うのだけれど、今日はそういう気持ちは一切なかった。ドロシーが今どういう気持ちでいるのか、その差なのかもしれない。
 安心するかもしれない、そうドロシーの言った言葉が耳を離れなかった。
 果たしてそれは僕の事だろうか。それとも。
 いつもは、自分が上とかドロシーが上とか、心の中で順番をつけたがってばかりいた。けれど、そんな事をしていた自分が何故だか急に馬鹿らしく思えて来た。全く無意味な主張だ、そう気づいたんだと思う。