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 あっという間の一年だった。東京に来て、住吉の所に住まわせて貰って、気が付けばもうそんなに時間が経ってしまっていたのだ。
 初めの頃は何をしていいのかも分からなくて、オロオロしながら右往左往していた。それは見知らぬ場所へ放り出されたからだと僕は思っていた。けれど、今はちょっと違う考えを持っている。何をするにも不安だったのは、自分というものをきちんと持っていなかったせいだ。だから、ちょっとした事でも自分が揺らいでしまって、消えてしまいそうな不安を覚えてしまうのだ。
 今の僕にはそれが無い。多分だけどそう思う。だから次の一年は、もっと前向きに過ごしたい。そういうのが、生きる、という事だと思う。それが、元々生きても死んでもいない異族であっても。



 四月は新の言葉がつく事が多い。多分、お正月よりも多いんじゃないかと思う。周囲の言葉がよく分かるようになってから、特に良く違いが分かった。
 今日もいつものように朝から図書館へ向かう。すると、入口には一枚のプリントアウトされた紙が貼られているのが目に入った。今日は図書館に新刊が入ってくるので、午後から休館になるそうだ。ここでも新の言葉が使われている、そう思ったけれど、よくよく思い返せば新刊は毎月入って来ていた。
 まずいつものように閲覧室に行き、図書員の人に挨拶してから昔のニュースを雑多に斜め読みする。ふと目を留めて読んだのは、まだ日本の年号が昭和の時代だった頃に開催されたオリンピックの特集だった。世界中の人が日本に集まり、色々なスポーツで競い合うお祭りである。だから、どの写真にも色々な国の人が写っていた。また日本でもオリンピックが開催されたら、きっと楽しいに違いない。辛抱強く待っていればいつかは順番が回ってくるだろう。
 一通りニュースを読んだ後は、帰ってから読む本を借りた。今日は四季の野草と北陸の昔話にした。お弁当を持たないで来るようになってから、本を二冊借りても帰りに重い荷物に苦戦する事は無くなっている。しかし、その分読書のペースが落ちる事はなく、むしろ読む幅が増えたようにさえ思う。たった一冊、借りられる本が増えただけで随分と充実度が変わってくるものだ。
 アパートに帰って来ると、相変わらずドロシーはコタツで寝転んでいた。もう四月で桜もとっくに咲いているほどの陽気である、だからコタツは要らないと思うのだけど、ドロシーが自分は冷え性だからと片付けるのを拒んでいるのだ。この柔らかい温かさがドロシーのお気に入りなんだと思う。けれど住吉は、早くコタツ布団をクリーニングに出したいと渋い表情をしている。
 テーブルの上には住吉が用意した昼食が並べられていた。待ち切れなかったというよりは、素直に自分の仕事とした事である。
「おかえりー、クリスちゃん。さあ、御飯にしましょ」
「今カバン置いて来る。あ、また御菓子なんか食べてる。御飯前なのに」
「あら、御飯と御菓子は違うのよ。それに、すみちゃんの料理は特別な場所に入るから、幾ら食べていても平気なの」
「その内太るよ」
 ドロシーの威嚇するような声を背に、僕はさっさと次の間に入ってカバンを置き服を着替えた。それから手を洗ってうがいをする。特に今の季節は花粉というものが外を飛び交っていて、これを鼻や喉の粘膜につけたままにすると花粉症という病気を引き起こすそうだ。死ぬ事はないけれど、症状を抑える以外に有効な治療薬も無いという恐ろしい病気である。
「じゃ、食べましょ。いただきまーす」
「いただきます」
 いつも食事時の挨拶は、ドロシーの声は調子が外れている。多分何かの真似なんだと思うけれど、いい大人がする事ではない。ただ、住吉がそれを苦笑いもせず流しているのが分からない。ドロシーをそういうものだと思っているからだろうか。
「ねえ、今日は何の本を借りて来たの?」
「植物図鑑と民話の本だよ。民話の方はドロシーが読んでも面白いと思う」
「あら、昔話の本なの? じゃあ、ママが寝る時に読ませて聞かせなくちゃ」
「いいよ。ドロシーは読めない漢字が多いもん」
 ドロシーと一緒に昼食を食べるのが日課になって、ドロシーと会話する機会が増えたような気がする。一緒に居る時間は大して変わっていないけれど、食事をするという共通の事をしているから、時間を共有している感覚があるんだと思う。
「ねー知ってる? 警察がもう何年も追いかけてる泥棒がいるんだけどさ。追い詰めたと思ったらいつの間にかいなくなってしまうから、怪盗幽霊なんてあだ名が付いちゃってね。で、その怪盗幽霊が昨日遂に捕まったらしいの」
「え、どうやって? 幽霊だから、お坊さんとか神主さんが捕まえたの?」
「違う違う。たまたま警察署で備品の落し物があって、それで警察官の所持品検査をしてたら、明らかに警官じゃない人が紛れてて。すぐに捕まえて調べたら、なんと驚く事にあの怪盗幽霊だったってオチ」
「警察になりすましてたから、今まで見つからなかったんだ」
「ううん、そうでも無いみたい。その怪盗幽霊ってね、実は異族だったの。日本の何とかって妖怪」
「妖怪?」
「気が付くと家の中に入り込んで家主のように振舞ってみんな一応従うんだけど、何故か誰も知らないって妖怪なんだって。泥棒に入って警察に追い詰められても、警察か家主かのように振舞って逃げられるのよ」
「じゃあ何で警察官の振りしてたんだろ?」
「どこまでやったらバレるだろうかって、チキンレースだったらしいよ。所轄で駄目なら警視庁、国会議事堂、果ては皇居なんて企んでたらしいし」
「何だか凄いんだか凄くないんだか分からない人だね」
 そうお互い顔を合わせて笑う。
 そういえば、僕は異族が犯罪を犯したという話を聞くたびに心を痛めている事が無かっただろうか。いつの間にか、他所は他所と割り切れるようになっている。自分の中にしっかりとしたぶれない軸みたいなものが出来ているからだろう。それが自立という事なんだと思う。
 やがて昼食も終わり、食べ終えた食器は台所の流しへと下げる。最近は何も言わなくてもドロシーも手伝ってくれるので、仕事が速く終わるようになっていた。何事もこうだと嬉しいのだけど、そう密やかに願う。
「あっ、電話!」
 片付けが終わった頃、突然居間の入口にある電話が鳴った。案の定、ドロシーは先に気づいたくせにコタツに入って出て来ないので、代わりに僕が立って受話器を取る。
「もしもし、住吉です」
『ああ、クリスか? 俺だ、住吉だ』
 受話器から聞こえて来たのは住吉の声だった。他にも何か掛け声のようなものや雑音も聞こえる。多分まだ新築地なのだろう。
『ちょっと悪いんだが、お使い頼まれてくれないか。玄関の下駄箱の上に忘れて来ちまった』
 そう言われ、一旦受話器を耳から離して首を伸ばして見てみると、確かに風呂敷の包みが置かれたままになっている。出掛けにちょっと置いて、そのまま飛び出してしまったという感じだ。
「いいよ。御飯食べ終わったら行く。どこへ持って行くの?」
『自治会長さんのところだ』
 その言葉に、どきりと胸が高鳴り、うっと声を詰まらす。明らかな動揺、それは受話器越しの住吉にも伝わっていた。
『……やっぱり止めておくか? 代わりにドロシーを……あいつは無理かなあ』
「ううん、大丈夫だよ。じゃあ、ちゃんと届けてくる」
 そう何度も念を押し受話器をゆっくり切る。同時に自然と溜息が出た。何て馬鹿な事を言ってしまったんだろう、そういう溜息だ。
「電話、誰から?」
「住吉だった」
「えー、私にはラヴメッセージは無しなの?」
「お使い頼まれただけだから。あ、そうだ、だから今から出かけるね」
 僕はすぐさま次の間に駆け込んで上着を着ると玄関へ向かった。届ける荷物である風呂敷包みを確認し、最後に息を一つ吸って気持ちを落ち着かせる。
 しかし、
「ねえ、どこにお使い行くの?」
 急にドロシーが、すぐ後ろに立って僕に訊ねた。僕は声を上げそうになるほど驚いた。ドロシーはまたコタツにだらだら寝転んでいると思っていたからだ。
「んっと……自治会長さんのところ」
「あー、あそこかあ」
 ドロシーは意味ありげに肩をすくめて僕と同じように溜息をつく。それは、どういう状況なのか事情を察知したという事なんだと思う。だから僕を見るドロシーの表情は普段のような底抜けに明るいものではなかった。
「じゃあ私も一緒に行ってあげる」
「いいの? 外は寒いと思うけど」
「そうかもしれないけど、可愛い息子のためだもの。ママがついていてあげなくちゃ」
 言葉はいつもの本気か冗談か分からない浮ついたものなのだけど、今だけは妙な説得力があった。ドロシーはいつも半分冗談で自分をママと言っていると思っていたけれど、実は本当にそうなるつもりなのかもしれない。それぐらいの頼もしさがドロシーから感じられた。
「それじゃ、行きましょうか。ママがいれば怖いものはないわよ」
「うん、ありがとう」
 照れ臭くて、張り切っているドロシーにはその一言を小声で言うことしか出来なかった。その代わり、僕はそっとドロシーの手を繋いでみた。ドロシーの手は意外にも温かかった。冷え性だと普段言っているけれど、そんな事は全然無い。本当に温かいのか、それとも単に気持ちの問題なのか。すぐに僕は冷静になってしまったけれど、それ以上は考えない事にした。