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 自治会長さんの家は、住吉のアパートとからさほど遠くない住宅街の一画にある。今は一人暮らしだけれど、それにしては広すぎる一軒家に住んでいる。住吉ははっきりと言わず濁していたから、何か言い難い事情があるんだと思っていた。
 敷地内へ入り、とうとう玄関の前まで来てしまう。ここへ来たのはお正月以来の二度目で、僕は酷く緊張していた。
 恐る恐る呼び鈴のボタンへ手を伸ばす。しかし、自分の背が足りないせいでボタンに指が届かなかった。気を取り直し、ボタンはドロシーに押して貰う。
「ごめんください」
 チャイムの後、閉まった玄関の扉に向かってそう声をかける。内心、留守であればいいのにと思っていた。けれど、実際はすぐに家の中から自治会長さんの返事がして、すぐに玄関は開かれた。
「おや、いらっしゃい。珍しいですね、お二人で来るなんて。さ、どうぞどうぞ」
 僕達を見た自治会長さんは、一旦驚いて目を見開くものの、その後いつもの笑顔で僕達を中へ迎え入れようとする。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「どうぞ、すぐお茶を入れましょう」
 目的は住吉が忘れた荷物を届けるだけのはずだが、ドロシーはそれに構わずさっさと招かれるがままに中へ入ってしまった。慌てて止めようとするものの止める自然な理由も浮かばず、仕方なく僕もその後を付いていった。
 玄関から廊下を少し歩いてすぐに居間があり、僕達はそこへ通された。やはり一軒家だからか住吉のアパートよりも遥かに広く、テレビも倍近くはありそうな大画面だった。建物はやや古い雰囲気ではあるものの綺麗に掃除はされている。ただ、一人で住むにはどうしても広すぎる印象があった。
 居間に座って待っていると、会長さんがすぐに奥からおぼんを持ってやってきた。おぼんには小皿と果物ナイフ、そしてまだ半分以上も残っている羊羹が乗っていた。
「貰いもので申し訳ないんですけどね、良かった食べて下さい。おいしいですよ」
 自治会長さんは手際良くそれを切り分けていき、いれたての熱いお茶も添える。羊羹は普段食べた事は無いので本当に美味しいのかどうか僕は躊躇ったが、ドロシーはすぐに取って一口食べてしまった。
「あら、本当においしい。甘さが調度いいわあ。クリスちゃんも食べてみなさいよ」
 呑気にドロシーに振られ食べるしかなくなった僕も、恐る恐る食べてみた。見た目からしてチョコレートかガトーショコラをイメージしたけれど、そのどれとも異なる触感と味わいだった。けれど、お茶と一緒に食べるのならそう悪い感じはせず、これはこれで良いかと思った。
「あ、あの。これ。住吉から忘れ物って」
 一時羊羹の甘さに夢中になりかけていたが、慌てて自分を取り戻し、ようやく当初の目的だったお使いを果たす。差し出した風呂敷包みを受け取った自治会長さんは、丁寧に一礼しそっと脇へ置いた。
「ねえ、それ何ですか?」
 すると、ドロシーがすかさず風呂敷の中身について会長さんに訊ねる。幾ら何でも失礼じゃないかと内心ひやりとするが、会長さんは特に変わった事も無くただ微笑んでいた。
「いえ、たいしたものじゃありません。ただ、年寄りの足では集めるのが大変で、住吉さんにお頼みしていたんですよ」
 そう答えながら、会長さんは風呂敷包みをテーブルの上に置くとその結び口を解いた。中から現れたのは、数冊の漫画雑誌だった。しかしどれもかなり古いものらしく、紙は痛んで薄黒く変色し至る所が皺くちゃになっている。
「うわ、汚い雑誌ですね。会長さん、こういうの読むのがご趣味なんですか?」
「いえいえ。ただ、ちょっと事情がありまして」
「事情?」
「息子の描いた漫画が載っているんです」
 どきりと心臓が強く高鳴る。破裂するのではないかと思い、僕は思わず胸を押さえた。それを誤魔化すようにお茶を一気に飲み干す。舌を火傷するほど熱いはずなのだけれど、実際火傷しようがしまいが構わず僕はただ飲むことだけしか頭に無かった。
「大丈夫、クリスちゃん? そんな一気に飲んじゃって」
「うん、大丈夫。大丈夫……」
 ドロシーが普段の口調で小首を傾げながら問うてくる。けれど、その目は本当に心配している目だった。僕の異変を察知したのだと思う。だから僕はつい、嘘を言って強がってしまった。ドロシーが深刻な顔をするのは何となく見たくなかったからだ。
「まあ、そういう事ですから。ちょっと待っていて下さい。これは今、しまって来ますんで」
 自治会長さんもドロシーに似た表情を浮かべていた。それはおそらく、僕の事情を知っているせいだと思う。
 住吉も、ドロシーも、自治会長さんも、僕の事を知っているから遠慮をしているのだ。いや、遠慮だけじゃなくて、躊躇もあると思う。たとえば、住吉が僕にお使いをさせる時に即断しなかった事とかだ。
 そういう事に反抗したい、自分も大人の同列に混ざりたい、そんな衝動が爆発したんだと思う。だから僕は次の瞬間、自分でも全く意識していなかった言葉を放っていた。
「あの、自治会長さんの息子さんの事を教えて下さい」
 自分でも良く分かるほど、それはあまりに脈絡の無い唐突なお願いである。だから、ドロシーも自治会長さんも数呼吸する間、どう答えたら良いのかと困って固まってしまったのが分かった。
「クリス君……あの、どういう事なのか分かっているんだよね?」
 恐る恐る、まるで絆創膏を剥がすような慎重さで自治会長さんは僕に問い返して来る。動揺している、その反応だけは僕にも良く分かった。出来れば僕には直接話したくはない。そんな様子さえ覗える。
 僕はすぐに一つ、首を縦に振った。正直、子供の言う事をどこまで真に受けてくれるのかという不安はあった。けれど、当事者意識があるからだろう、それで自治会長さんは応じるかのようにゆっくり頷いて見せた。同時に、後ろからドロシーが僕の事を抱き締めてきた。それは僕を止めるというよりも支えるという雰囲気のものだった。前に同じようなことをされた事を思い出し、僕は自然と一呼吸置いた。何となく安心感を感じてしまう。ドロシーの存在は意外にもそういうものだ。
「私の息子は昔から漫画が大好きで、まあろくに勉強もせず漫画ばかり読んでいたんですよ。それが、ある時から急にがらりと変わりましてね」
「変わった?」
「漫画を自分で描き出すようになったんですよ。将来自分は漫画家になるんだって。そりゃ反対しましたよ。当時も今と同じで、巷には漫画なんて捨てるほど溢れ返ってる。そんな仕事で食べていけるはずが無いって。でも息子は頑として聞き入れてはくれませんでした」
 今世の中にある漫画の数は、図書館にあるものよりもずっと多いという。だけど、ほとんどの人にそういう実感は無い。それは、沢山の人が覚えてくれるような漫画は、その中のほんの一握りだからだ。そういう仕事で食べていくなんて、確かに親なら反対したくもなるだろう。
「そんな息子ですが、とある出版社の目に留まりましてね。そのまま話がうまく進んで行って、遂には専属として描く事になったんですよ。結局、漫画家になってしまったんですよ。呆れるほどの執念で。そこまで来ればもう、親としては言う事なんかありません。ただ応援するだけです」
 照れ臭そうに頭をかく自治会長さんだったが、目には懐かしむような寂しい雰囲気が見え隠れしていた。まだ幸せな頃の思い出だからなのだろうか。勝手にそんな想像をする。
「あの、息子さんの漫画って売れたんですか?」
「いえ、全く。皆に訊ねても、大概は首を傾げてしまうようなものです。だから漫画だけでは食べていけなくて、バイトとか掛け持ちして随分無茶はしていたようです。結局のところ、それが原因になったんでしょうね」
「原因って……?」
「ある日、急死したんです。心不全と言われました」
 自治会長さんの奥さんは随分前に死別したらしい。そして、今一人で住んでいる理由がこれである。住吉があまり口にしたがらないのは当然だと思った。誰が悪いという話ではないけれど、聞いているだけでも気持ちが沈んで悲しくなるから、とても話を続けたくはなかった。
「息子の漫画はさほど売れはしませんでした。時代の風潮に合わない、キャラクターが魅力的じゃない、話が面白くない、そういった基本的な理由です。それにもめげず幾つも描きはしたものの、辛うじて数冊が本として世に出回った程度。ほとんどは雑誌に掲載されたまま読み捨てられ、どこかへ捨てられていってしまいました」
「じゃあ、それでこういう雑誌を……?」
 その問いには、会長さんは曖昧に微笑むだけでどちらとも答えなかった。僕はその顔が寂しげに見えて、それ以上は訊けなかった。
「生前、息子が特に思い入れのあった漫画があるんです。辛うじて一冊だけ単行本を出して貰った、そんなものでしたけれど」
「まさか、神魔日記……?」
 唐突にドロシーがぽつりと呟く。そのタイトルは僕も覚えている。あの日、住吉が怒鳴ってでも僕に見せたくはなかった漫画の題名だ。
「そう、それです。近未来の日本で、様々な御伽噺や空想の世界の住人が世界中から日本へ集まって生活する、そんな内容でした。まだ当時は異族という言葉すら一般的ではなかった時代です。その上、タイトルにもある通り、ただ日常で起きた事を日記へつけるだけの起伏の無い内容で、あまり人気は出ませんでした。だから今になって私も悔しくなってしまいましてね。今でこそ当たり前の世界を、何年も前に予見して描いていた。なんて時折、親馬鹿な事を口にしそうになりますよ」
 たまに未来の事をぴたりと当てる漫画家がいるのだという。出鱈目を百も千も並べれば、どれかがいつか当るかもしれない。しかし漫画家のそういうものは、まるで実際自分で見てきたかのように正確だったりして、単なる出鱈目や偶然では片付けられない事もある。異族が当たり前に住んでいる今の日本を、果たして予見していて描いたのだろうか。それとも、単なる想像が偶然当ってしまっただけなのか。僕には分からなかった。
「それでね、クリステル君。君はこの漫画の登場人物にそっくりなんだ。一話完結の話だったけど、唯一全部の話に出ている特別な人物で。私も最初はそれしか顔と名前を覚えられなかったけれど、だからこそ見間違えたりは絶対にしなかったんだよ」
 それが、おそらく住吉が僕に見せたくなかった一番の理由だ。そんなものを見て、もしかしたら僕は混乱してしまうかもしれない。何かしら思い違いをしてしまうかもしれない。そもそも受け入れる事が出来なくて、別な何かに逃げる事もしたかもしれない。だから住吉は徐々に慣らしていこうとしていたんだと思う。ただ運悪く、僕はいきなりあのページを見せ付けられる事になったのだけれど。