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「こちらから一つ訊いても良いかな?」
 にこやかに確かめる自治会長さんに、僕は無言のまま一つ頷き返す。何を訊かれるのか自分でも予想はついていた。今一番はっきりさせたい事はそれ以外に無いのだ。もしもその想像が間違っていなければ、それはお互いにとって当てはまる。
「やはり君は、漫画のクリステル君と同じ人なんだろうか?」
 一瞬の沈黙を挟み、僕は答える。
「僕は昔の事を覚えていないので分かりません。でも、そっくりならばそうかもしれないとも思ってます」
 そう、と自治会長さんは小さな声でぽつりと答え僕はそれに頷いた。僕を抱くドロシーの腕の力が一層強まり、そこはかとなく息苦しさを感じてきた。言葉選びに緊張しているのはドロシーも同じなんだと思う。こうでもしていないと、この場の緊張感に耐えられないのだ。だから僕はドロシーにはさせたいようにさせておく事にする。
 しばし自治会長さんは沈黙していた。お茶をゆっくりと飲む仕草の中でも、表情はどこか思案に満ちていて心と体が繋がっていないように見える。僕にとって過去の記憶の事は、もはやそんなに重要な事では無くなっていた。それは現状の生活が気に入っているからに他ならない。けれど、自治会長さんにしてみればこれは今も尚続いている問題なのだ。だから僕とは違って一つ一つが慎重なのだろう。そう解釈する。
 沈黙をしばらく続けた後、自治会長さんが全員のお茶を入れ直すと、おもむろにずっと閉ざしていた口を開いた。
「もしもクリス君だったら。私は謝らないといけないのかもしれないね」
「どうしてですか?」
 謝る。その言葉に僕は、初めて自治会長さんに会った時の事を思い出した。図書館の帰り道に突然現れた変なおじさん。それが後から自治会長さんだったとは知ったけれど、未だにあの時の驚きと恐怖は忘れていない。けれど、自治会長さんはそんな僕の胸中を見透かしたかのような表情を浮かべて、いやそれは僕の思い違いかもしれないのだけれど、それでも確かに何かを寂しがるような表情を見せたのは事実で、そんなどうとでも解釈出来る表情のまま話を続けた。
「私はね、一度全部燃やして捨ててしまったんだよ」
「何をですか?」
「息子の漫画さ。雑誌も単行本も何もかも、これまで集めて保管していたものを、全て、一つも残さずに」
「燃やして……捨てた?」
 何故そんなことを。僕はそんな気持ちを込めて問い返した。自治会長さんは、最初こそ反対はしていたものの最後は漫画家になった事を応援したと、そう自分で言っていたはずだ。それなのに、応援するために集めていたものを焼いて捨てるなんて。僕にはとても想像がつかない、不合理な出来事にしか思えなかった。しかし、またしても自治会長さんはそんな僕の胸中を見透かしたような眼差しを僕へ見せる。
「死んだ息子の事を思い出すのが辛かったんだよ。来る日も来る日も、あの時自分が止めていれば、あの時無理にでもやめさせていれば、そんな事ばかり考えて気持ちが日々腐っていった。だからいい加減そんな自分に踏ん切りをつけるためにも、敢えてそうするしかなかったんだ。これで二度と後ろは振り返らない。辛い気持ちもいつかは決着がつけられる。そう信じていたんだ。でも、その後の事だったんだよ。道端で突然、クリス君を見つけたのは」
 自治会長さんは、そこで一旦自分を落ち着けるためにお茶を一口、口にする。多分、自分でも辛い事を言っているせいだろう。そう僕はそれを解釈する。
「勝手だが、直感したんだ。この子は私が燃やして捨てた所から生まれたんだって。だから申し訳なさもあるのと同じように、怖いとも思っていたよ。半ば途方に暮れていたんだろうね。一世一代の決心を決めて焼き捨てたのに、まさかこんな形で戻って来るなんて夢にも思っていなかったんだから」
 すると僕は、自治会長さんにとってはさながら幽霊のような存在になるのだろう。それも怨念を抱えた恐ろしい存在としてだ。
 ただ、そう思い詰めてしまうほど、全てを焼き捨てた事を後悔しているのかもしれない。悩みすぎて、ふとした気の迷いから取り返しのつかないような事をしてしまい、そして後悔のあまり今は一度焼き捨てたのと同じものを改めて買い集めている。好意的に見過ぎかもしれないけれど、僕はそう思う事にした。
「どこで燃やしたんですか?」
「東京湾。新築地の近くにある防波堤の影さ。あそこは人気も無くて静かだから、夜になると都合が良かったんだよ」
 僕が住吉に拾われたのもそういう所だったと思う。
 やはり、話は繋がってしまった。僕の出生の秘密も、無くしたものだとばかり思っていた記憶も、これで全て説明がつけられる。僕の出生、ルーツ、これではっきりした。本当は、これで肩の荷が降りたと気分がすっきりするものだと僕は思っていた。けれど実際は、それほど気分は明るくも軽くも無く、こんなものかと言ってしまいそうになるほど呆気ない印象だった。どうしてあんなに不安で身悶えた事もあったのか。今となってはまるで分からない。
 調度その時、壁に掛かっていた時計の鐘が鳴った。顔を上げて針を見ると、いつの間にか四時になっていた。間もなく夕食の準備を考え始めるような時間だ。
「そろそろお暇しましょうか、クリスちゃん。切りもいいところだし」
 ドロシーに僕も頷き返す。そして顔を向けた自治会長さんも、何も言わず曖昧に微笑んでいるままだった。
 最後に残ったお茶を飲み干し、自治会長さんにお茶のお礼を述べて立ち上がる。ずっと緊張していたせいか、膝がかくっと抜けそうになった。正座をしていなくとも、歩けなくなる事があるようだ。
「クリス君、今の生活は幸せかな?」
 別れ際、自治会長さんがそんな事を問い掛けてきた。いきなり深い事を訊かれて僕は戸惑うけれど、一呼吸置いて落ち着いてからゆっくり答える。
「僕は子供だから難しい事までは考えれていないけれど、今の生活は楽しいから幸せだと思います」
 そうか、それなら良かった。今にもそう口にしそうな笑顔で頷きながら自治会長さんは僕の答えに応じた。本当に、それ以上も以下もない、心から僕が今そういう生活をしている事を喜んでいるような表情だった。
 その言葉を最後に僕はドロシーとうちへと帰った。帰り道は、来る時よりも足取りが軽く感じられた。それは多分帰り道だからという理由では無いと思う。何かから解放されたという気持ちの良さではなくて、もっと別の何か表現の難しい気持ちの良さがあったからだと思う。
 またいつか機会があったなら、自治会長さんの家に遊びに来てみよう。
 うちへ着く直前、そんな考えが僕の頭を過ぎった。