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 体の中が波打つ感覚を味わったのは、生まれて初めてのことだ。撫でられる事は好きだけれど、それとは違うもっと不快なもので、胃から物が込み上げてくるような何とも嫌な感覚だった。
「馬鹿、よせ! 撃つな!」
「くそっ、この! 離しやがれ! 畜生!」
 銃声は立て続けに三発聞こえた。それから僕は男に横から蹴り飛ばされ、掴んでいた男の腕も離してしまい、吹っ飛んで転がり玄関近くの壁にぶつかって止まった。すぐに起き上がろうとしたものの体から力が抜け、床に転がったまま動けなかった。疲れ果てて動けないというよりも、力そのものを体に込められないという感じだった。
 まず脇腹に走る熱さに、お湯を浴びせられたのかと勘違いする。そして遅れてやって来る痛み。この強烈な痛みが、脱力した僕の手足を硬直させる。これが銃で撃たれるという事なのだと、ぼんやりと思った。やけに他人事のように思うのは、もう体を動かす余力が残っていないからだ。
「はあ、はあ、はあ、くそったれめ。よくもやりやがったな。くそっ、とどめを刺してやる」
「いい加減にしろ! 勝手に銃を使うんじゃない! おい、それより誰か外の様子を見てこい! 機動隊は動くか!?」
 僕が押さえ付けていた男はふらふらとよろめきながら立ち上がると、手にした拳銃を僕に向けて構えようとする。それを別な男が制し、銃を取り上げてしまった。けれどそれで収まりはせず、男は動けない僕の体を思い切り踏んだり蹴ったりし始めた。
 制止した方の男の表情はやけに切迫していた。今この状況で銃を使う事がどう影響するのか、僕と同じ事を考えているからだろう。
 頼む、これで警察が動いて欲しい。それでまこちゃんを助けて欲しい。
 何度も何度も執拗に蹴られ踏み付けられながらも、そう僕は切に願った。頭の中は既にもやがかって、目を覚ましているのがとても辛かった。だけど、せめてまこちゃんが無事に助けられる所を見るまでは、安心して目を閉じる事は出来ない。
「機動隊に動かなさそうだ。盾を構えてるが、すぐ突入という感じじゃない。連中、意外と慎重だぞ」
「そうか。やはり強硬姿勢ははったりだったな。よし、今のうちに人質の処刑をしてしまうぞ」
「マスコミが騒ぎ始めた。今の内だ」
 警察が動かない?
 その言葉に僕は愕然とする。
 最初の銃声の時はすぐに動いたというのに、どうして二回目は駄目なんだろうか。もうこれしか方法は無かったのに。
 ああ、やはり考えが浅かったのか。僕ではまこちゃんは守れなかった。全然力が足りなかった。悔しい、何も報いる事が出来ないなんて。
 そんな時だった。
「突入っ!」
 突如家の中に響き渡った声は、意外な場所から聞こえてきた。直後に台所の勝手口が激しい勢いで開き、幾つもの足音が家の中になだれ込んで来る。この予想外の出来事に連中は酷く慌てた。
「えっ、何? 何だ?」
「他に機動隊なんていたのか!? ちゃんと見張ってろよ!」
 不測の事態に動揺した連中がそんな事を言っている間に、突入してきた一団はあっという間に廊下までやってきた。
「突っ込め突っ込め! 止まるな!」
「奥まで押し込め! 拳銃じゃ盾は抜けないぞ! 強引に行け!」
 皆盾を構えたまま、連中に対して有無を言わさず突っ込んで行く。僕が横たわってもまだ余裕がある廊下なのに、何人もなだれ込んで来た警察の人達であっという間に溢れ返ってしまった。
「おい、銃はどこだ!?」
「まずい、全部リビングだ!」
「くそっ!」
 誰かが拳銃を撃ったらしく、銃声が幾つも響く。けれどそれはすぐに聞こえ無くなり、連中は廊下の突き当たりまで押し出され、そのまま壁と盾で挟み込まれた。そこからは実に呆気なかった。声も上げる事も無く大した抵抗も出来ないまま、連中は警察に次々と押さえられた。
「確保! 犯人、確保! 全員確保したぞ!」
 誰かが大声でそれを叫ぶと、その言葉は次々と警察の人達に口づてで伝わり、そして最後の人が窓を開けて外へと叫んだ。
 ああ、これで連中はみんな捕まったんだ。全部終わりなんだ。そう思った途端、ますます体から力が抜けてまぶたが重くなった。ふと、自分の周りに血の臭いが充満している事に気がついた。これが自分の血なのだろうか、と思うと、尚更終わりというものを強く実感する。
「まこと! まこと! どこだ!?」
 再び勝手口から誰かが飛び込んできた。靴もはいたまま、酷くうろたえた口調でどたどたと喧しく駆けてくる。聞き慣れた声だった。もうほとんど動かせなくなった首を何とか持ち上げて見る。その声の主はやはりパパさんだった。パパさんは今まで見たこともない形相をしている。お仕事へ行ってから一日くらいしか経っていないのに、妙にやつれたように見える。
「管理官! 人質、保護しました!」
 警察の人が物置から顔を出してパパさんの方へ叫ぶ。それと同時に脇からまこちゃんが飛び出して行った。
「まこと!」
 まこちゃんはパパさんの元へ駆け寄り、パパさんは駆け寄るまこちゃんをぎゅっと力強く抱き留める。まこちゃんはパパさんに抱きしめられたまま大声で泣きじゃくった。パパさんも、良かった良かったと何度も繰り返している。僕はもう首を持ち上げる力も無くなり、頭を床にごろりと横たえたまま、そんな二人を見ていた。床は冷たいはずなのだけど、もうそれも感じなかった。
 ああ、良かった。本当に良かった。
 僕もパパさんと同じ気持ちだった。まこちゃんを守れたとは言い切れないけれど、それでも無事に助かって本当に良かったと思う。一歩間違えれば、連中に撃たれていたのはまこちゃんなのかもしれないのだから。
 パパさんに受け止められて泣くのも束の間、まこちゃんはすぐに顔を上げて、泣きながら僕を指差した。
「パパ、あかしまが……ううっ。あかしまが、死んじゃった……」
 まこちゃんは大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、酷い、可哀相と何度も繰り返している。そんな僕を見たパパさんは驚きで目をかっと見開き、側にいた警察の人は苦い表情を浮かべたようだった。
「あかしま、お前……!」
 それから何かを叫んだようだけれど、僕はもう声が良く聞き取れなくて、何だかくぐもった音が響いた気がした。
 そろそろ意識が保てなくなってきた。普通の眠気とは違う強い眠気をずっと我慢していたけれど、もう気が抜けてしまったせいか、急にどうでも良くなってきた。まこちゃんは僕を死んじゃったと言ったけれど、自分でももうどちらなのか分からなくなっている。案外、今自分を自分と認識している事さえ錯覚なのかもしれない。
 こんな事になってしまったけれど、僕はこれで良かったと思う。まこちゃんが無事ならそれでいいのだ。
 僕はずっと悔しい思いばかりしてきたけど、もう悔いは残っていなかった。