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 ぴくりぴくりと耳が震える。隙間風か物音に反応した動きだ。それをきっかけに真っ暗な中で自分の耳の形を意識すると、今度は鼻が動いた。周囲には慣れない匂いが漂っている。どうやらここは家ではないらしい。
 なら、僕はどこにいるんだろう?
 そう不安に思った直後、唐突に目が覚めた。
 僕は見知らぬ薄暗い部屋の中にいた。家のリビングよりも広く、床は板張りになっている。僕はその真ん中で厚いクッションを敷いた上に寝そべっていたようだった。体には厚い毛布がかかっていて温かかったが、知らない匂いも多くて少し嫌だった。足の辺りにも違和感がある。何か管のようなものが繋がれているらしい。邪魔だから取りたいけれど、そこに手は回りそうになかった。
 体を起こせるだろうか。漠然と体中に残っている疲労感からそんな不安を抱きつつ、足に力を込めて起きようとしてみる。一度体は持ち上がり視界が高くなったけれど、足にまるで力が入らずに崩れて、腹ばいの姿勢になってしまった。そのお腹の辺りにはじんわりと痛みと熱がある。あまり動かない方が良いのかもしれない。
 ここはどこだろうか。パパさんは? ママさんは? まこちゃんは?
 三人の姿を求めて部屋を見渡してみるけれど、誰の姿も見当たらなかった。そればかりか、この広い部屋にいるのは僕だけらしい。寂しい、と僕は頭を垂れる。小さく声を漏らしたが、部屋が静かなせいでそれはやけに響いた。
 一体僕はどうなったのだろうか。ここへ来るまでの事を思い出そうとしてみたけれど、何も掘り出せなかった。頭がぼやけて視界がふらふらするけれど、思い出せないのはそのせいなのだろうか。
 僕は置いていかれたのではないだろうか。もう邪魔になったからと、まこちゃんの所へ来る前の時のように、知らない間に連れて来られたんじゃないだろうか。僕は何も悪い事はしてないし言うことをちゃんと聞いていたけれど、あそこからは追い出されてしまった。だから同じ事が二度あっても不思議じゃない。まこちゃんを疑う訳じゃないけれど、誰もいないのは何か不安だ。
 ふと、僕のすぐ側で何か影が動くのが見えた。気配が無かったので驚いて振り向くと、そこにあったのはただの窓ガラスだった。カーテンは開いているのだけれど外側に雨戸が閉められているから、それで僕の姿が写り込んだのだ。
 窓に写る僕の姿は、すっぽり毛布に包まっていて何とも弱々しく見えた。頭を下げて上目使いになっている目に力は無く、耳もみじめに垂れ下がっている。ちょっと情けなさ過ぎるとも思ったけれど、今は尾を持ち上げる事すら体力が要る。そして何より、虚勢を張るだけの気力も無い。
 僕はじっと写り込んだ自分の姿を眺めていた。写り込んだ僕も、じっと僕の方を見ている。我ながらふてぶてしい顔だと思う。だから叩く人がいるのだろうかと思ったけれど、パパさんもママさんも悪い事をしなければ僕の事を叩いたりしないから、多分違う理由があるのだ。
 僕はまこちゃんと見た目が全く違っている。パパさんもママさんもそうだ。僕のような毛は無く、歩く時も二本足、何よりも言葉を交わす事が出来ない。ただ、まこちゃんはいつも僕に優しいから、その違いを気にする事がほとんど無かった。それがこうして自分の姿を見ると、久々に自分とは違うのだと実感する。だけど、それをどうこう思い悩む事も無かった。そんな事とは関係無く、みんな僕に優しくしてくれるし、僕もそれに応えようと思う。僕にとってあの家に一員として居るのが当たり前のことなのだ。
 しばらく誰もいない部屋で孤独感を味わっていた時だった。前方に見える戸の更に向こうから、別な戸が開く音が聞こえてきた。この建物の中に誰かが入って来る。体が自由に動かない事もあって、僕は一度はその気配に警戒する。だけど、何となくどこかで覚えのあるような匂いがして、どう構えればいいのか困ってしまった。
 そしてこの部屋の戸が静かに開かれる。現れたのは暗い色合いをした上下ジャージ姿の女性だった。
「あらっ?」
 彼女はすぐに僕に気付くと、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら駆け寄ってきた。
「あかしま君、目が覚めたの!? あらあ、良かった! 心配したのよ! 手術なんて初めてだったけど、もう無事で良かった!」
 僕の顔を見るなり、やけに甲高い声を上げて頭を撫で回してくる。悪気は感じないのだけれど、頭を撫でてくれる手はともかく、やはりこのうるさい声は負担に思う。
「早速先生呼ばなくちゃ。ちゃんとおとなしくしてるのよ? すぐに来るからね」
 どの道動けない僕にそんな事を言い付けて、またぱたぱたとスリッパを鳴らしながら奥へと行ってしまう。そして、こちらまで響いてくるほど大きな声が聞こえてきた。
『先生、あかしま君が起きましたよ! 早く来て下さい! 朝御飯なんていいですから! 私だって昨夜から食べてないんですよ!』
 呼び付けているのか、お腹が空いている不満を言っているのか良く分からない。でも、確かこの人はいつもこんな感じだったと思う。
 僕の方はお腹は空いていない。夕飯からずっと食べてないのだけれど、食欲がいまひとつ湧かないのだ。それよりも、まこちゃんに会いたい。パパさんとママさんにも会いたい。この寂しい気持ちをどうにかする事の方がずっと重要だ。