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 彼女の一方的な会話に辟易しながら寝転がっていると、やがて現れたのは裾がだらりと長い服を着たおじさんだった。僕はこの人には覚えがあった。時々パパさんが僕を車に乗せてどこかへ連れて行くのだけれど、そこに居る人だ。僕を台に乗せてあれこれ体を触ったりした後に、家でも食べられないような美味しいおやつをくれるのだ。
「おうおう、良かったなあ。本当に生きてたか。いやいや、驚いたなあ本当に。二日も寝たきりで駄目かと思ったが、やはり体がでかいだけあって、生きる力が強いんだのう」
 おじさんは僕の体を触ったり、何か器具を当てたりする。何をしているのか良く分からないけれど、少なくともじゃれたり遊んで欲しいという訳ではないようだ。
「どうです先生? あかしま君は大丈夫そう?」
「心臓がちゃんと動いとる。体温も上がってきたようだし、こりゃもう一安心だな。峠はとっくに越えとる」
「本当ですか?」
「本当本当。今までの経験上、生き延びる奴とそうでない奴は良く分かるからのう。ここまで心臓が強く動いてれば、まず助かるもんだ」
「良かったねえ、あかしま君。先生のお墨付きよ?」
 生き延びる。やはりそれは僕の事だろうか。
 何となく僕は、自分が一度死のうとした事を思い出した。いや、死んでも構わないと思ったのかもしれない。とにかく、自分をそれぐらいに追い込み投げ出したのだ。その結果、逆にこうして助かる事になったのだろうか。
「しかし、お前さんは病気どころか食あたりすらせんから、予防接種以外じゃ来る事は無いと思ってたんだがのう。まさかこんな大怪我こさえて来るとは、いやはやたまげたわ。あんな大手術なんざ初めてだったから不安だったが、何とか助かって良かったわい」
「あかしま君て、例の犯人をみんな噛み殺したんですよね? じゃあこれって、その時に出来た名誉の負傷ですね」
「そんな事しとらんわい、物騒な。まあとにかく、こいつは本当に大した忠犬だ。飼い主の盾になってなあ。まこちゃんも無事だったぞ?」
 まこちゃんが無事? 本当に?
 そう僕は顔を上げておじさんの目をじっと見た。どうせ言葉は通じないだろうと思っていたけれど、僕が何を思っているのか察したのだろうか、笑いながら僕の喉元を優しく掻いた。
「あかしま、お前さんは命を一つ儲けたぞ。普通は死んでもおかしくない所だったんだからな? もう、こういう幸運は無いと思っておけよ。まあ、ああいう類の馬鹿が早々来るとは思わんがの」
 命を儲けた。そう言われても、僕はあまりぴんとは来なかった。そもそもみんなが命と言っているものを、実の所あまり良く分からない。生きているために必要なもので、生きているというのは自分で動けるということだと思っているけれど、実際どういう事なのかは分からないでいる。だけどあの時、僕はまこちゃんが死んでしまうという危機感を持っていた。言葉ではうまく言い表せないけれど、実際にそういった岐路に立たされると自覚出来るものなのかもしれない。
 まあ、とにかく僕は生きていて、まだまこちゃんと遊べるという事だ。僕はそれだけで十分だ。
「ところで先生、連絡はしておきましょうか? 奥さんが、何かあったら時間に関係なく連絡して欲しいって言ってましたけど」
「うむ、それじゃあ電話してやりなさい。この分なら、顔を合わせるぐらい大丈夫だろ。まこちゃんの顔を見た方があかしまも元気になるもんだ。なあ?」
 まこちゃん、という言葉に僕は反応し、またおじさんの顔を見る。おじさんはやはりまた僕の思っている事を察したのか、
「よしよし、今にまこちゃんが来るからな。おとなしくしてるんだぞ。まだまだ傷は治ってないからなあ」
 そう言って僕を撫でてくれた。
「さて、飲み水を持って来ようか。少しずつ自分で飲めるようになれば良くなっていくからなあ。いずれ自分で御飯も食べられるようにならんと。そうなれば、家に帰れる日はすぐだ」
 御飯なら家に帰ってから食べたい。そう思いながらおじさんの顔を見上げてみたけれど、それは伝わらなかったのか、頭をぽんぽん叩き待ってろ待ってろと答えるばかりだった。
 僕の体は怪我ばかりだから自由に動かせない。だからこそ、家がとても恋しかった。こういう慣れない所は居るだけで気持ちが寂しくなる。
 早くみんなが来てくれないかなあ。そう僕は何度も何度も繰り返し思った。