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 日が傾くに連れて、建物の中も徐々に静かになっていった。自分以外の声や匂いも次々と外へ出て行く。先生の仕事の終わりが近いのだろう。
 やがて声も匂いもしなくなった頃、再び外からパパさんの車の音が聞こえて来た。お仕事が終わったので、ママさんとまこちゃんを迎えに来たのだろう。
「さあ、まこ。パパが来たから、そろそろお家に帰りましょう」
「やだ、もうちょっとだけあかしまと居る」
「また明日来ればいいんだから」
「でも、もう少し」
 珍しくママさんの言う事に逆らうまこちゃんは、僕の手を取りながらあれこれと話し掛けたり、僕の体を撫でたりしていた。今日は一日中ずっとそうしている。普段よりも掛かり切りである。体調が万全ならもっと飛び回って遊びたい所なのだけれど、気持ちだけでは体はどうにもならない。
 しばらくして部屋の戸が開き、パパさんと先生がやって来た。
「どうでした?」
「もう、えらく絞られたよ。それこそ一生分頭を下げた気分さ。今夜はもう飲んで忘れたいよ」
 パパさんは苦笑いを浮かべながら上着を脱いでネクタイを外す。いつもよりも乱雑な仕種だから、もしかして怒っているのだろうかと一瞬僕は怯えた。けれど、僕の側に近づいて来て僕を撫でて来たパパさんの手は、いつもよりもずっと優しい感じがした。ただ、溜息が少し多いように思う。疲れているのだろうか、いつも帰りが遅いから。僕は心配になった。
「さすがのエリート官僚も、今回は堪えたようだなあ。相当無茶したんだって?」
「一歩間違ったら、上役勢揃いの謝罪会見でしたからね。参事官に昇格の話もあったんだけれど、ああもう二度と来ないだろうなあ。こんな事をやってしまったんじゃ」
「別に今の給料でも住宅ローンは払っていけるから、そんな出世にこだわらなくていいのよ」
「そうそう、奥さんの言う通り。家族にマイホームに仕事と三つ揃ったんだ。これ以上欲張ったら、バチが当たるってもんよ」
 まあそれもそうだね、とパパさんは笑い、僕の喉をくすぐった。
「パパ、警察で怒られたの?」
「そんなことないよ。しばらくお仕事を休めって言われただけさ」
「本当に? じゃあ、一緒に遊べるね!」
「そうだね。そう言えば、しばらくどこにも連れてやってなかったからなあ。良い機会だ」
「うん。でも、あかしまも一緒だよ」
 それは勿論とパパさんは答える。良くは分からないけれど、しばらくお仕事がお休みになり、まこちゃんが喜んでいるのだから、きっとそれは良い事なんだと思う。パパさんの溜息は気になるけれど、きっと疲れているせいなのだろう。疲れくらいなら一晩眠ればすっかり消えるから大丈夫だ。
「ところで、前から不思議に思ってたんだが。何でこいつの名前、あかしまって付けたんだい? 誰かの知り合いの名前か何かか?」
「いえ、私が訓練所で引き取った時にはもうそういう名前でしたから。あかしま、って呼ばないと返事をしないんですよ、こいつ。自分の事を、あかしまだって思ってるみたいで。多分、担当者か誰かの名前を勘違いして覚えたんですよ」
「なるほどなあ。調教師でもそういう失敗をするもんなんだな」
「初めは、変な犬を引き取ってしまったかなと思いましたよ。犬のくせに目玉焼きが好きで、いつも人の横にぴったり座って待ってるし。でも、まことの良い遊び相手になってくれてましたよ。それに今回の事だって、あかしまが暴れなかったらきっと、強行突入のタイミングも外していただろうし」
「ああ、大した忠犬ぶりだったもんなあ」
「今となっては、やっぱりあかしまを引き取って正解だったと思いますよ。あかしまが居なければ今頃、家族は悲惨な状態になってたはずですから」
 そう笑いながら、パパさんは僕の頭をぽんぽんと叩く。パパさんが僕にこんなに長く構うのは久しぶりの事である。パパさんは普段素っ気ない事が多いから、こうして気にかけてくれるのはとても嬉しかった。
「あかしま、怪我が治ったらどこか遠出でもしてみるか? パパはしばらく暇になったからね。お前もたまにはどこか行きたいだろ? 思い切り暴れても怒られないような所とかさ」
 パパさんの問い掛けに僕は目を見て応える。そんな僕の仕種にパパさんは笑いながら首筋を掻いた。普段とは違うパパさんだけれど、今の優しいパパさんの方が僕は好きだ。これからもずっとこうなのかな、と期待を込める。
「先生、あかしまは何時になったら怪我が治るの?」
「さてね。三日か、五日か、一週間かなあ」
「そんなに待てないよう」
「いいかい、まこちゃん。こういうのはね、花が咲くのと同じなんだよ」
「なあに、それ?」
「待ち遠しいのは、待っている間だけって事さ」
「わかんない」
「ははっ、大人になれば分かるさ。ああ、それとも、まこちゃんは美人だから、どちらかと言えば待つよりも待たせる方かな?」
 笑う先生に、まこちゃんは眉間に皺を寄せて首を傾げる。言っている事は良く分からないけれど、話をはぐらかされて不満だという顔付きだ。
「まあ、あかしまが退院するまで毎日お見舞いに来ればいいさ。パパが送ってあげるから」
「うん、絶対だよ。やっぱり仕事が、って言わないでね」
「大丈夫、約束するよ」
 横からじゃれつくまこちゃんを、パパさんは笑いながら撫でてあやす。思い返してみると、僕はパパさんとまこちゃんが一緒にいる所をあまり見たことがない。そもそもパパさんが仕事に行って家にいない事の方が多いのだ。だからだろうか、まこちゃんはいつも以上に嬉しそうな顔をしている。ああまこちゃんは幸せなんだな、と思うと、僕は自分の事のように嬉しくなった。
「あかしま、明日はボール持って来るね。転がすくらい出来るでしょ? 私が転がすから、それを返すのよ」
 起き上がれないけど、それぐらいなら大丈夫だよ。僕はまこちゃんの目をじっと見て応える。
「あまりあかしまに無理させないのよ」
「させないもん。あかしまが寂しくないようにするだけだもん」
「もう、本当にこの子は」
 パパさんもママさんも、みんな楽しそうに笑っている。
 やっぱりこういう雰囲気は落ち着く。僕はしみじみ思った。僕はみんなとは違うけれど、家族の一員として迎え入れられている。その実感が一番欲しいものなんだと、僕はある時から思うようになった。その最たるものが今の時間だ。こういう温かい雰囲気を共有出来る、それが一番の幸せで、どんなに辛い目に遭っても守る価値があると思うのだ。
「あかしまだってボール遊びしたいもんね? ほら、遊びたそうな顔してるよ」
「分かった分かった。とにかく、あかしまに無理はさせないんだぞ。怪我が治ったら思い切りやっていいから」
 分かってるよ、とまこちゃんは僕にも同意を求め、そして一方的に頷く。遊んでいいのかは分からないけれど、確かに怪我が良くなったら思い切り遊びたいと思う。パパさんが広い所へ連れていってくれるのなら尚更だ。
 先生は花が咲く頃には治るとか言っていたから、早く咲かないだろうかと今からもうそれが待ち遠しい。そしてくたくたになるまで思い切り走り回って遊びたい。それはきっと、とても楽しくて幸せな事だろう。
「早く元気になってね、あかしま」
 僕の額に自分の額をぎゅっと当てるまこちゃん。されるがままになりながら、僕も同じ事を願うのだった。