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 家に着いた私は買った物を母屋へ届け、井戸の水で顔を洗ってから寝床へ入った。あんな恐ろしい目に遭った直後、また不思議な事にも遭遇したから、ただでさえ遠出もしている体はへとへとに疲れていた。朝の残りのパンをかじり水を飲みながら、古ぼけたベッドの上で横になる。疲れているけれど気持ちが変に高揚してしまって、眠気は全く催さなかった。早く寝てしまって疲れを取りたいのだけれど、体はまだ眠りたくはないのか手足が妙に熱っぽくなっている。
 私は、また今日も遭遇した、あの不思議な声の主の事を思い浮かべた。偶然見付けた近道の途中にいる声の主。姿は見ていないし、声は男とも女とも若くとも年寄りとも取れないから、一体どんな人なのかまるで想像もつかない。そして、あんな所にどうして居るのか、そこに一人で住んでいるのか、素性も分からない。ただ分かるのは、今日は山賊に追われていた私を不思議な力で助けてくれたという事だ。
 最初に声をかけられた時は、あまりに唐突で不気味だと訝しがったけれど、きっとあの人は良い人だと思う。ここからさほど遠くもないのだから、明日になったら改めてお礼を述べに訪ねてみよう。
 そう決めた私は、その日はいつの間にかそのまま眠ってしまった。朝になり、またいつものように勝手口でパンを貰って朝ご飯を済ませると、早速あの声の人の所へ向かった。家を出て街道沿いに歩くのはいつものお使いと同じである。その途中から脇にそれ、良く注意して見ないと存在にも気付かないような細い道へ入る。その道は鬱蒼と生い茂る森の中へと続いていった。背丈程もある藪ばかりの道だけれど、うまく切り開かれているのか私が歩く分にはまるで困らなかった。まるで私のために引かれた道のように思える。そんな事などありはしないのだけれど。
 時刻も方向も昨日とは真逆だったけれど、何と無く音の響きや木々の雰囲気から、あの声が聞こえて来たはずの場所までやってきた。足を止めて辺りを見回してみるが、全く人の気配は無く、むしろ静か過ぎて耳鳴りがするほどである。
 この周囲を捜してみれば見付けられるだろうか。そう思っていると、
『こんにちは。また来たのですね』
 またしても唐突に聞こえてくる、あの正体の知れない不思議な声。私はどきりと胸が高鳴り驚きはしたけれど、嫌な気分にはならなかった。むしろ、まだここに居てくれたのだと安堵した。
「あ、あの、昨夜はどうもありがとうございました」
『無事で何よりでした。ですが、今後は夜間の外出は控えるべきです』
「そうですね……」
 しかし、それは義母にお使いを命じられる内は無理な話である。私自身、何も好きであんな時間まで出歩いている訳ではないのだ。
「あの、あなたは今、どこに居るのですか?」
『あなたの足元ですよ』
 足元?
 そう答えられ、傍に座っているのだろうか、と付近を見回す。けれど、それらしい姿は見当たらない。からかわれたのか、と一瞬私は声を疑った。
『正確な表現ではありませんでしたね。ファジー過ぎました。それでは、あなたから見て一歩分ほど左方向の茂みの中を見て下さい』
 真面目に言ったのなら、どういうつもりだったのだろうか。良くは分からないが、ともかく言われた通りに茂みへ近づくとそこを上から開いて覗いて見る。
「あれ?」
 茂みの中にあったのは、薄汚れた銀色の箱だった。光が当たると鈍く反射するのを見ると、この箱は鉄で出来ているらしい。お金持ちの人が使う金庫だろうか。
 すると、
『見えましたね。それが私です』
 その声は、これまで以上にはっきりと聞こえてきた。今まではどこから聞こえて来るのか分からなかったけれど、今のは確実にこの箱から聞こえて来たと分かった。いきなり信じ難い物の証拠を突き付けられた感覚である。
『話し難いでしょうから、まずは茂みから出して頂けますか?』
「は、はい……」
 一体この人は何者なのだろうか。困惑したまま、私は恐る恐る手を茂みの中へ差し伸ばして鉄の箱に触れて見る。その箱は、鉄だから冷たいと思ったけれど、じんわりと温かかった。そして微かに動いているような感触がある。どこからどう見ても箱なのに、まるで動いているみたいだ。そう私は思った。
 箱の縁に手をかけ、腰と膝に力を込めながらゆっくりと持ち上げてみる。するとその箱は見た目よりも遥かに軽く、こう力むまでもなく少し力を込めるだけで簡単に取り出す事が出来た。
『ありがとうございます。このまま日差しの当たる所へ置いて頂けますか? 充電効率を上げる必要がありますので』
 私の手の中で語るその箱、何がしたいのかは分からなかったけれど、とにかくお日様が欲しい事は分かった。私は木漏れ日がなるべく多めに射す所へ箱を移し、自分もその隣へ座った。
「ここでどうですか?」
『ええ、良く日が当たって良好です』
 嬉しいのかどうか分からない、まるで抑揚の感じない声。ますます私は、これは一体何なのかと首を傾げた。日差しの下で改めて眺めてみるが、見れば見るほど何とも不思議な箱だった。全体的についている黒い汚れは煤だろうか。火事場で焼け残ったようにも見えるけど、形はしっかりとしているし、煤を擦ればすぐ下に綺麗な銀色が現れる。この付近で火事が起こった話は聞いた事が無いし、何より言葉を喋る箱自体聞いた事が無い。本当に何者なのだろうか。どうしても気になった私は、恐る恐る話し掛けてみた。
「あの……私はアイラと言います。あなたのお名前は?」
『私には特定の固有名称はありません。呼称する際は概ねライブと呼ばれています』
「ライブですか? 変わった名前」
『正確には名前ではありません。開発コードです』
「そ、そう……」
『私単体を認識するための呼称につきましては、何でも結構です。好きに呼んで下さい』
 名前なのか名前ではないのか。ライブの言い回しは複雑で私には理解が出来なかった。ともかく、他に呼び名もないのであれば、私はこの箱をライブと呼ぶ事にする。