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 その日の晩は、医者に言われた言葉を何度も何度も繰り返し思い浮かべながら床についた。
 あなたの左目は角膜に大きな傷があり、完全に再生するかどうかは断言出来ない。仮に再生したとしても元の視力にはまず戻らず、場合によってはそのまま失明するかもしれない。とにかく今は角膜潰瘍が発症しないか様子を見る事になる。
 じわりじわりと真綿で締め付けるような左目と頬の痛みを感じつつ、俺は医者の言葉に溜息を繰り返し漏らしていた。今は様子見しかないと言われた事が、事実上医者に匙を投げられたように感じてならなかった。突然の大怪我で悲観的になっているせいだとは思うけれど、それを自覚したところで気持ちを切り替える事は出来ない。ただ、冷静に医者の指示に従って治療に専念しようと、自分に言い聞かせるばかりだ。
 しばらくベッドの上で薄暗い天井を眺めていたが、やはり眠る事は出来なかった。こんな心境で落ち着いて眠れるはずもなく、寝酒を煽るにしても酒は医者から禁止されている。どうせなら睡眠薬も処方して貰えば良かったと、今更思った。
 眠れず退屈な頭で、ぼんやりとあの出来事を思い返す。
 出社途中に呼び止められ、一つ二つ言葉を交わしただけ。それから後は切り付けられて終わりである。朝からいきなり刃物で切り付けられるなど、この平和な国で誰が想像しようか。どこをどう振り返っても、自分には何も落ち度は見当たらない。そもそも、包丁をわざわざ用意していたという事は突発的な行為ではないのだろう。どこかで自分が怨みを買ったと考えるのが自然だけれど、正直そこまでの心当たりはない。
 一体あの男は誰なのだろうか? 自分が誰か分かるかと俺に食ってかかってきたが、どこかで俺は男と繋がりを持っていたのだろうか。それだけの不明瞭な繋がりで切り付けてくるのは異常だとは思うのだけれど。
 しばらく考えていればいずれ眠くなると思っていたが、期待とは裏腹に考えれば考えるほど目は冴えてきた。それに伴い、傷の痛みも少しずつ増して来る。病院で打った痛み止めが切れてきたのだろう。寝入る直前とは少々タイミングが悪い。
 俺はベッドから起き上がり、テーブルの上に放っておいた痛み止めを一錠取ると、台所で水を汲んで一緒に飲み下した。痛み止めが効いてくるのに、どれだけ時間がかかるのだろうか。それまでに痛みが本格化しないかと不安に思った。
 突然、テーブルの上の薬袋の隣に置いていた携帯が震え出した。
 こんな時間に誰だ、と一旦は思ったものの、普段ならまだ起きている時間ではあるし、そもそもこの職業には昼夜などない。と言うことは、仕事絡みからの電話だろうか。そう思いながら携帯を開くと、それは案の定だった。
『よう、弘隆。俺だ』
 聞こえて来たのは同期の伊藤の声だった。唯一気の合う友人であり、社内でも腹を割った話が出来るのは伊藤ぐらいのものだろう。
「ああ。そういや連絡していなかったな」
『連絡も何も、社会部中でお前の噂で持ち切りだぜ。嫌でも耳に入って来るさ』
「悪い。また迷惑かけたな。ただでさえ無理を聞いて貰ってたのに」
『いいんだよ、それくらい。それよりも怪我は大丈夫なのか?』
「大丈夫とは言い難いかな。しばらく左目は見えないようだから」
『そんなに酷いのか? 災難だったな。まあ、ちゃんと医者の言う事聞いてりゃ治るさ。今の医学ってのは凄いらしいからな』
「この間の記事、読んだぞ。医師と製薬会社の癒着だってな。医者否定派のお前が言うと、医学なんてあまり説得力が無いな」
『そう言うなよ。あれはもう三年もコツコツ取材して、ようやく掲載に漕ぎ着けたんだから』
 電話口から聞こえる伊藤の苦笑いに、俺は口元を僅かに綻ばせた。しかし怪我のせいで随分顔の筋肉が強張っていたらしく、顔に妙な凝り固まった違和感を覚えた。
『ところで、明日は出社出来そうか? お前とこのデスクが話があるって言ってたぞ。電話じゃなく直接だそうだ』
「ああ、今の所は出るつもりだが。社の方はどうだ?」
『うちと同じさ。凄い騒ぎだったみたいだ。問い合わせや取材の申込がひっきりなしで、みんな仕事にならないってぼやいてら。ああ、ほら。今も外にテレビ局の連中がちらほら見える』
「なんだ、お前まだ帰ってなかったのか」
『いつもの事だろ。そういう訳だから、明日は裏口から来いってさ。着いたら俺に電話してくれ。それと、万が一見つかっても何も言うなだと』
「それくらい分かってるさ。記者の端くれだからな」
『あと、これは噂程度のもんなんだが。捕まった犯人、どうやら厄介な事になりそうだぞ』
「厄介?」
『犯人はお前の記事を読んで犯行を決めたそうだ。詳細は分からんが、まあ大方見当はつく。偉方も今回の件を重く見てるそうだ。もしかすると何か処分があるかもしれない』
「そうか……。あれが原因なら、俺はクビかもな」
『まさか、流石にそれはないだろ。だってお前は』
 それを口にした直後、電話口の伊藤が言葉を詰まらせた。
「何だ?」
『あ、いや、わりい』
「今更なんだよ。別にいいさ。気にしてない」
 伊藤が口にしかけた事はそれ以上追求しなかった。それは入社以来影で散々言われたであろう事だし、今更面と向かって言われようが別段気にはならない。しかし、実の所は常に気に病んでコンプレックスにしているからこそ、今回のように伊藤に無理を承知で頼んだという見方も出来る。案外、しっかりと直視していない自分自身の部分だ。
『とにかく、しばらくはおとなしくしていた方がいい。社会部の件もほとぼりを冷まさにゃならん』
「そうだな。ただでさえうちにも社会部にも迷惑をかけてしまってた所だから」
『まあ、そういう事だ。ところでさ、俺も仕事が一段落しそうだから、近い内にパーッと遊びに行こうぜ。こういう時は憂さ晴らしした方がいいもんだ』
「そうだな。じゃあ久しぶりに飲みに行くか。来週辺りどうだ? それくらいなら俺も酒が飲める」
『よし、じゃあそれで決まりだな』
 それから伊藤とはしばし雑談し、やがて伊藤の方からそろそろ仕事に戻ると電話を切った。すると、ようやく飲んだ痛み止めの効き目が出てきたのか急に疲れが出てきたように感じ、またベッドへ戻って横になった。今度はすぐに眠気が襲ってきて、何も考える間もなくうとうととし始めた。力を抜いたらこのまますぐ眠りに落ちるだろう、それぐらい意識が希薄になった。
 最後に少しだけ、また今回の事を振り返ってみた。伊藤の話が事実なら、そもそもの発端は自分で作った事になる。俺がこんな怪我をするのも、その流れから察すれば決して有り得ない事ではないのだ。
 なんだ、ただの自業自得だったんじゃないか。
 俺は左頬の傷に静かに軽く触れ、一人そう自嘲しながら眠りについた。