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 翌朝、大原氏が運んできた朝食を食べて着替えを済ませると、早速取材を兼ねた町の散策の準備を始めた。とは言っても、初めての町を散策するのに大荷物を持つのも邪魔で、何より如何にも余所者だと触れ回るようなものだから、持ち物はいつも持ち歩いている取材手帳だけに留めた。写真等が欲しければ、携帯である程度代用が利く。
 準備を済ませ、最後に洗面所の鏡の前で昨夜大原氏から借りた能面を付けてみた。ゴム紐を耳の上から後頭部を通して固定するだけのシンプルなもので、さほど難しいものではなかった。ただ、目の部分の穴が割と小さい事と左目が見えない事が相俟って、視界が思ったよりも狭く歩き難かった。これは階段などを下りる時は一旦外した方が無難である。
 そうしながら階段を下りた所で、調度仕事中の大原氏と鉢合わせた。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと散策してきます」
「でしたら、大町方面に行くと良いですよ。あそこが一番活気がありますから。地図のついたパンフレットを差し上げましょう」
 大原氏から観光用のパンフレットを貰い、取り合えずはそれを頼りに大町なる方へ向かう事にした。
 奥之多町の午前は、東京とは比べ物にならないほど静かで人通りがなかった。町中に引かれた道路は全て一車線、その周辺に店や住宅がぽつぽつと点在している。建物と建物の間が百メートル近く離れている事なども、決して嘘大袈裟ではなかった。人通りも無いという事は当然車の行き交いも無く、これが所謂過疎地というものなのかとしみじみ思った。そして、そんな町中を一人で能面を被って歩くなど、とても普通では発想すらない、何とも珍妙な状況である。
 パンフレットの地図に従ってしばらく歩いていると、ふと行く先に何やら賑やかな所があるのを見つけた。どこかの駐車場だろうか、綺麗にアスファルトで舗装された一画に数名の人影があった。テントを建て、大きな紙張りの箱を運び、あちこちにスピーカーを取り付けるなど、まだ午前中だというのにやけに忙しない。恐らく件の死人祭りの準備なのだろう。こういった行事に精を出す姿は微笑ましいと思いつつも、彼等の能面をつけての作業という風体はとても異様に見えた。能面の事は聞いてはいても突拍子も無くて半信半疑だったから、実際に目にした衝撃は思っていたほど大きい。
 祭りのメインとなるのはこの周辺なのだろうと目星を付け、更に周囲の散策を続ける。車通りのない一車線道路の真中を歩きながら、道沿いに細かく視線を配る。先程の一画にもあったのだが、紙張りの大きな箱は道路や家の玄関先などあちこちに設置されていた。
 箱は木材を骨組みにした直方体で、四面を薄い和紙のような紙で覆われている。箱はビールケースなどの台に乗せられ、中に仕込まれた電球用の電源コードが下から伸びている。紙には人気の漫画キャラクターから本格的な浮世絵風の作品など、実に様々な絵が描かれている。
 全体的に漂う手作り感はむしろ、どれだけ多くの労力が注がれているのかを感心させられる。おそらくこれが祭りの期間中街灯の代わりに灯す行灯なのだろう。描かれている絵の多彩さから察するに、老若男女の隔て無く祭りに参加して盛り上げようという地域の一体感が感じられた。
 しばらく周辺を散策してみたが、とにかく行灯がどこにでも設置されている事が良く分かった。数も非常に多く、仮に一世帯一つ用意したとしても、この町中だけで軽く百近い行灯が設置されていることになる。今は昼だが、これが夜になると一斉に灯されるのだろう。その光景は是非とも写真に収めておきたいものになるに違いないだろう。
 再び最初に通った駐車場まで戻って来た頃、久しぶりに歩き詰めた事で喉の乾きを覚えた。時刻は十時過ぎで昼食にはまだ早い。自動販売機でもないかと歩いていると、程なく一軒の喫茶店を見つけた。これは好都合とばかりに、早速休憩に立ち寄る事にする。
 店内は昭和レトロな雰囲気を思わせる内装で、やや古臭さは否めないものだった。他に客は無く、俺は窓際の席に座ってテーブルのメニューを手にする。書いてあるのは何の変哲もないメニューばかりだが、コーヒーの記述だけがコーヒになっている点だけ気になった。
「御注文はお決まりですか?」
 やがてカウンターの奥から女性の店員が現れテーブルの脇に立ったが、彼女はおかめの面をつけていた。おおよそ普通の喫茶店では有り得ない姿に思わずぎょっとするものの、ここで慌てる訳にもいかず出来る限り平素の振る舞いを心がける。
「アイスコーヒーを一つ」
「かしこまりました」
 普通に注文を取って伝票に記入し、一礼して奥へ戻って行く彼女。本当に能面をずっと付けているのだろうかと気になって、横目で彼女の姿を追ってみたが、結局彼女は能面を外す素振りは見せなかった。本当に、仕事中も終始付けているようである。素振りは自然だけれど、やはりその風体の異様さは存在感が有り過ぎてとても無視出来ない。
 しばらくしておかめの彼女が注文したアイスコーヒーを持って来た。ガムシロップを一つ入れ、ミルクポットからミルクをたっぷりと流す。ストローで軽くかき回すとあっという間に琥珀色のまだらが出来た。俺はいつもこうして飲むのが好きなのだけれど、周囲からはあまり共感を得られていない。
 早速飲もうとして、ふと自分も能面を付けている事を思い出した。
 能面を付けたままだと、コーヒーどころか食事もまともに出来ないんじゃないだろうか?
 その事に気づき、失敗したと思った。地元の人は食事をする際は能面をどうしているのかを俺は知らないのだ。能面の扱い方で地元民ではない事が分かられてしまうと不安になりつつ、仮にばれてしまった所で連山町の雑誌記者と言えば済む話だと思い直し、とにかくここは仕方が無いと割り切ってアイスコーヒーを飲むことにする。俺は能面を少し上に持ち上げてずらすと、ストローだけ加えて飲み始めた。良く磨かれた窓にはそんな自分の姿が写り、何とも間抜けに見えた。もしもこれが地元の人間がやらない方法であったら、殊更間抜けな姿になってしまう。
 そんな自分の姿を噛み締めつつ、想像していたよりもこの取材は楽なものではないと思い始めた。出張取材は初めてではないけれど、今までは会社の名前をあらかじめ出しておき、周囲に段取りを取って貰っていた。けれど今回はそれが無いので、何もかも独力でやらなくてはいけない。今までがどれだけ楽だったのか、今になって痛感する。