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 ようやく宿に着いたのは夜の九時を回った頃だった。概ね予定通りと言えなくもないのだが、思わぬ遠出をしてしまったせいか、もっと遅くまでかかったような疲労感がじんわりとのしかかって来る。今日はこのまま眠ってしまいたいが、寝る前に今夜の草稿だけでも起こさなければならない。体験した事は時間が経つに連れて思い込みの補正が入り、新鮮さや正確性を無くしてしまうからだ。
 鍵の空いていた正面玄関から中へ入ると、すぐに奥から大原氏が現れた。テレビの音がこちらまで漏れて来る。俺の帰りを待ちながら寛いでいたようだ。
「お帰りなさいませ。夕食の準備が出来てますけど、先にお風呂になさいますか?」
「ええ、そうさせて貰います。汗でびっしょりですから」
 一旦部屋へ戻って能面を置き、着替えを持って大浴場へ向かう。東京よりは北にあるためか日が落ちると涼しいものの、長く歩き詰めたせいで全身は汗でびっしょりと濡れている。特に面を付けていたせいで蒸れていた顔は、熱いお湯で洗うと実に心地良かった。もっとも、怪我は完治していないから、思い切りは洗えないのだけれど。
 汗を流して強張った体を浴槽でじっくりとほぐす。風呂を上がってからはゆったりとした浴衣へ着替え、顔の怪我のために包帯とガーゼを新しい物へ替えた。鏡で見ると、相変わらずくっきりと刃物の痕が左半分に走っている。しかしその傷口は、思わず触りたくなるむず痒さがあった。きっと治り始めているからだろう。
 部屋では大原氏が丁度夕食をテーブルへ並べていた。如何にも地の物らしい野菜や山菜をふんだんに使った田舎料理と、一目で鮮度が分かる美味そうな刺身の盛り合わせ、それから何とも香ばしい粗汁が湯気を立てている。部屋は俺が風呂に入っている間にエアコンも効かせてくれたようで、火照った体には心地良い室温になっていた。大原氏は普段の印象通り、非常に細かい所まで気が回る質のようだ。
「ビールも冷えてますが、如何ですか?」
「丁度良かった、喉が渇いて仕方ない所です。いただきます」
 大原氏が栓を抜き、俺のグラスにビールをとくとくと注ぐ。それを泡が落ち着くまで待たずに、一息で一杯目を飲み干した。冷えたグラスにビールは、体が熱いせいで喉から胃まで流れ込んでいくのがはっきりと分かる。この冷たいものが体を流れる感触はとても気持ちが良い。
「では、いただきます。大原さんも一緒に飲みませんか? 一人で飲むのも何ですから」
「宜しいですか? では、私も失礼して」
 大原氏は一旦部屋を出て、自分用のグラスと軽くつまむ程度の乾き物を用意して来た。大原氏のグラスには今度は俺の方からビールを注ぐ。俺のように体が火照っている訳でもないから一気に飲むような事はしないものの、やはり何ともうまそうな表情を見せていた。
「ところで、祭りの方は如何でしたか?」
「ええ、何て言えばいいのか。想像よりも見応えがあって、圧倒されましたよ。行灯の明かりって、あんなにも綺麗な物なんですね。ただの電球のはずなのに」
「やはり、和紙を使っているからでしょうかね。和紙越しの光には独特の情緒がありますから」
「大原さんは祭りは見に行かれないんですか?」
「実は私、こう見えて喘息持ちでしてね。夜の外出は苦手なんですよ。発作が起きるかもしれませんから。今は良く効く薬があるので、平気と言えば平気なんですけどね。まあ、子供の頃にあまり良い思い出が無いもので」
「それは大変だ。では、祭りでも蚊帳の外という感じですか」
「窓を開けて眺めるだけでも充分楽しめますからね。それに、この町の祭りは神輿を担いだり山車を引っ張ったりするような祭りとは違いますから、それだけで充分なんですよ」
「確かに変わった祭りでしたね。みんな何する訳でもなく、ただ普段とさほど変わらない雰囲気で。見知らぬ人からお酒も勧められちゃいましたよ」
「ああ、きっとそれは、沼沢の……おっといけない。実は、能面を付けてる人の事を祭りの間は名前で特定しちゃいけないんですよ」
「匿名希望という事ですか?」
「そんな所ですね。せっかく正体を隠しているのに、それは野暮ってものです」
 どうやらあのどぶろくの人は、その事だけで特定出来るぐらいの有名人であるようだ。普段はどのように振る舞っているかは分からないけれど、ああいった感じでは面を付けても付けていなくてもあまり変わらなさそうだ。
「お面で思い出した。貸して頂いた面、あれはハンサムを自称する面なんですってね。そう聞いたんですけど」
「おや、今時そんな事を話す方がいらっしゃいましたか。大昔の習慣でしたから、年寄りでも知らない方が多いのに」
「大原さんの所にこれがあるという事は、御家族のどなたかが?」
「私の亡くなった祖父です。何と言いますか、良くも悪くも大っぴらで明るい人でしてね。いわゆる御調子者ですから、祭りの時は特に元気になるんです」
「そして、美男子であるという?」
「自称、です。どうせ顔なんて分かりませんからね、お面を付けている訳ですし」
 そんな程度の経緯だったのか。その呆気なさに思わず吹き出してしまう。そういう気質の人であれば、そんな事もあるだろう。トレードマークのようなものだったのかもしれない。
「ところで、明日はどうされる予定ですか?」
「祭りの由来や歴史について調べようと思っています。図書館はどこか近くにありますか? 郷土史が読めるような所であれば構わないのですが」
「それなら、私の父が詳しいですよ。そういう祖父の話を聞いて育ってる訳ですから。ちょっとボケてますけど、昔の話なら大丈夫です」
「生のお話を聞けるのはありがたいのですが、宜しいんですか? あまり御迷惑をかける訳にもいきませんし」
「いいんですよ。話し相手が母しかいないんですから、むしろ喜ぶはずです。では、私から後で連絡を入れておきますよ。車ですぐの所ですから、明日すぐにでも行けますよ」
「すみません、宜しくお願いします」
 思わぬ形で取材らしい取材が出来る。実についていると思った。道に迷っていた俺を案内してくれた神社の女性もそうだし、案外この土地とは相性がいいのかもしれない。自分が思っている以上に良い記事が作れるかもしれない。酔いも手伝い、俄にそんな期待が込み上げてきた。