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 宿に戻ったのは丁度夕方頃の事だった。タクシーの窓から外を眺めていると、まだそれほど日が落ちていなくともぽつぽつと行灯に明かりを灯しているのが見受けられた。日中はほとんど人通りの無い町中にも、面を付けた人の行き交いが増え始めている。今夜もまた死人祭りが始まるのだけれど、こういう風景を見ていると明確な祭りの始まりは無いように思える。むしろ町民が何時から何時までと個々の感覚で決めているのではないかと想像出来てしまう。元々は土着神を楽しませるものだったけれど、盆と重なる内に先祖供養の意味合いに変わったのかもしれない。
 部屋に戻った俺はすぐに荷物からパソコンを取り出して電源を入れる。そして記事ごとに整理したフォルダを開いていき、その中でもうっかり開けないようしばらく隅に置いていた、あの事件に繋がった記事を作成した際に使った資料を一式開く。目的は、事件の被害者である女性の名前である。後から事件の事を聞き、その時に被害者の名前をこの辺りへ控えておいたような記憶があるのだ。しかし、それは何かの思い違いだったのか、ファイルを全てチェックし検索をかけてみたものの、目的の情報は見つからなかった。キーボードで控えた記憶は確かにあるのだから、もしかすると保存したのは会社の方のパソコンかサーバーの方だったかも知れない。
 俺が貸与されている端末には、出先から自社のサーバーへ繋ぐ権限はない。そこで、携帯を取り出すと伊藤へ電話をかけて確認して貰う事にした。もしかしたら出先かもしれないが、時間があれば伊藤の端末から会社へ繋げて調べて貰う事も出来る。
 仕事が切羽詰まっていたりしないだろうか。そんな事を思いながら電話をかけてみると、伊藤は三回コールの途中であっさり電話に出た。
「よう。どうかしたか?」
「ちょっとな。今大丈夫か?」
「ああ、別に構わんよ。これから飯食いに出るとこだし」
 電話口の伊藤の声の後ろからは、沢山の車が行き交う音や夥しい雑踏の靴音がひっきりなしに聞こえてくる。普段自分はこれほど喧しい所で生活していたのだと思いつつ、やはりそちらの方が性に合う気がした。
「一つ聞きたいんだけどさ。あの事件の被害者の名前、覚えてないか? 覚えていたら教えて欲しいんだが」
 あの事件、と伊藤は一度訊ね、二呼吸ほど間を取った。
「あの事件ね、あの事件。ああ、何だったかなあ。記事はうちで書いたから聞き覚えはあるんだが。それよりもさ、知りたいのが名前ぐらいなら、ネットで調べた方が早いんじゃないか? 何か適当なワードで引っ掛ければ、すぐに出てくると思うぞ。事件の事は随分話題になったからな」
「あ、それもそうだったな。気がつかなかった」
「おいおい、休み惚けじゃないよな? でも、どうかしたのか? 急にそんな事言い出すなんて」
「大した事じゃないさ。ちょっとど忘れしただけだ。幾ら何でも、俺がそれを忘れたままにしておくのはちょっと不謹慎だろ」
「ま、個々の信条までは興味無いけどね」
「それで、そっちは何か変わった事は無いか?」
「取り敢えず、警察の話だとお前を襲った男は近々起訴されるようだ。情状酌量も認められそうだし、実刑にはならない見通しだ」
「そうか……。まあ、穏便に済むならいいよ」
「で、その記事を今俺が書かされてる。どうだ? 何か書いて欲しい事、リクエストはあるか?」
「やめろよ、そういうのは。趣味の悪い」
「ははっ、悪い悪い。ともかく、このまま行けば事態も沈静化するだろうし、全部が丸く収まる。役員達もそれを望んでる。それまで、もうしばらくの辛抱だな」
 沈静化とは即ち、事件の風化という事ではないのだろうか。物事が丸く収まるなど、結局はそれが前提の上での事にしかなっていない。こういう痛ましい事があったから二度と繰り返さぬようこれを教訓とする、これが報道機関の役割のはずだ。風化させて人々の頭から消してしまうのは、それとは真逆の行いではないか。もっとも、報道というものに携わっている訳でもなく、半端にかじった挙げ句ああいう事件を起こした俺が言う事ではないのだけれど。
「さて、他に何かあるか? そろそろ切るぞ。今日は昼飯食ってないから、腹が減って仕方ないんだ」
「ああ、悪かったな。時間取らせて」
「戻って来る日は教えろよ。土産も忘れるな」
「覚えてたらな。ご当地キーホルダーくらいは持っていく」
「せいぜい可愛い奴をな。それと、一応言っておくけれど、被害者の事を調べるのは名前までにしておけよ。じゃあな」
 最後にそんな事を言い残して伊藤はさっさと電話を切ってしまった。
 調べるのは名前までにしろとは、一体どういう事なのだろうか。
 よくその意図が掴みきれなかったがあまり気には留めず、ひとまずアドバイスに従って事件に関係しそうな単語をキーにネットで検索する。モバイル回線はお世辞にも速いとは言えないが、さほど時間はかけず結果は表示された。検索結果の先頭には、丁度その事件に関するニュース記事が上がって来た。そのグループにはうちの会社の記事もある。日付は今より一月も経っておらず、もう昔の事のように思えていたのに、まださほど時間は経過していない事を思い知らされる。
 帰宅途中の深夜、自宅近くの路上で背後から刺されて死亡。事件のあらましは、まだこの時点ではたったこれだけの文章に集約されている。
 そして見つけた、被害者沖田明里の文字。
 沖田。やはり被害者はあの神社の人だったのか。それとも単なる偶然同じだっただけなのだろうか。娘が殺されて父親が逮捕される、そして名前は同じ沖田。果たして、ここまで一致してしまうような偶然は起こり得るのか。そして、仮にそうだったとしたら、そんな場所を俺の雲隠れの場所に指定した事はあまりに不自然ではないだろうか。
 デスクに状況と理由を確認するべきなのか。いや、伊藤の言っていた事は、正にこれではないのだろうか? ならば、自ずと結論は出てしまう。余計な騒ぎを起こすな、そういう意味だ。
 俺の処分を決定したのは役員達だけれど、その場所として奥之多町を指定したのはデスクである。これは偶然と言うよりも、何か明確な意図があってそうしたのだと解釈する方が自然である。それでは、デスクは一体何を考えてこんな事をしたのだろうか。それこそ電話一つで確認すれば済む話である。だけど、予めこの事を言い含めなかったのは直接知らせる訳にはいかない理由があったからだろう。だから、今は黙っているのが正解である、そう結論付けざるを得ない。