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 沖田と名乗った彼女に案内されたのは、通りからやや外れた路地の一画にある古びた蕎麦屋だった。台風でも来れば飛んでしまいそうな木造の建物で、軒先に小さな行灯がある以外目立った標がなく、この場所を知っている地元の人でなければまず辿り着きはしないだろう。そんな、観光客や一見客お断りの敷居の高さを感じた。
「いらっしゃい」
 店の中は見た目通りこじんまりとした造りで、カウンターに五人、テーブル席が二つと、客が十人も入れば満席といったものだった。客はテーブル席に三人組がいるだけで、後はカウンターに店主が一人。店主は、声からするとかなり若そうだったが、何故か般若の面を付けていた。怒ると恐い、そんな主張なのだろうか。
 俺と沖田はカウンター席へ並んで座った。メニューはさほど数は無く、かけや月見、季節限定で山菜があるといったものだった。沖田は月見を、俺はたぬきを注文する。店主はそれから早速蕎麦玉から蕎麦を切り始めた。どうやら蕎麦の作り置きはしない方針なのだろう。東京でも立ち食いくらいでしか食べたことがなかった俺には、こうして生の蕎麦が茹で上がるのをじっと待つのは滅多にない体験である。
「沖田さんは、こちらには良く来られるんですか?」
「ええ。彼は私の小学校からの同級生ですから」
「えっ、そうだったんですか?」
 すると店主は蕎麦切りの手を一旦休めて、こちらに向かって会釈をする。釣られて、こちらからも会釈をして返した。お互い面をつけているから表情は分からないが、何となく苦笑いしているような気がした。そういう事であれば、予め言っておいて欲しかったのだが。どうしてこんな唐突な言い方をするのだろうか。どうにも彼女は掴めない。改めてそう思う。
 それからさしたる会話も無く、互いに無言のまましばらく経ってから注文の蕎麦が出てきた。先程まで屋台の前に並び食べようと思っていたものに比べ、ずっと軽くさっぱりとしたものになってしまった。けれど、出汁がとても香ばしく蕎麦の色もつややかで食欲をそそり、すぐに過ぎた事は頭の中から消えた。
 早速蕎麦を食べようと、面をずらすため手をかける。その時だった。食事をするためには面をずらしてある程度素顔を晒さなければいけない事を、ずっと忘れていたかのように不意にそれを思い出す。そして気が付いた。これは、沖田の素顔を見る機会ではないかと。しかし、そこで一つの問題に直面する。彼女は俺の左側に座っているので、左目の見えない俺には正面を向かない限り顔が見えないのである。
 何とかうまい角度で見れないものか。俺は首の角度や視線を工夫してみる。すると、
「何か?」
「ああ、いえ。七味はどこかと思いまして」
「手元の真下ですよ」
「おっと、こんな所に。いえ、面をつけているとどうも視界が狭くて慣れないもので」
「そうですか」
 沖田は一言素っ気なく答えて、蕎麦を先に食べ始めた。俺もあまり無理な事をして変に怪しまれても仕方がないので、素直に大人しく蕎麦を食べる事にする。
 沖田。彼女は一体何者なのだろうか。無言で蕎麦をすすりながら、俺はその事を考えた。
 彼女が自らそう名乗った時から、その正体が気になってならない。大原氏の父の話では、この町の神社の娘は東京で事件に遭って殺されており、名前を沖田と言った。そして、俺の記事が原因で殺人事件の被害者になった女性の名前も、これと同じく沖田。その上、どちらも共に父親がその後東京で逮捕されている。これだけ一致したのなら、あの神社の娘が俺の記事による被害者と考えて間違いないだろう。事情は分からないが、デスクがこの町へ俺を飛ばした事も、何となくではあるがその繋がりと思えば不自然さは無い。
 では、彼女は一体誰なのだろうか? 沖田明里は既に故人のはずである。裏付けは取っていないが、この沖田と名乗る女性はあの神社に住んでいるらしい。となると、家族か親戚と考えるのが自然になる。ただ、その関係もまた裏は取ってはいないが。
 本当はそんな疑問など、一言訊ねればそれで済む事である。けれど、祭りのルールとして面を付けた個人を特定してはならない事になっている。そもそも、彼女がそんな突っ込んだ事を訊けるような雰囲気ではないし、俺の素性を明らかにすればとんでもない騒ぎにもなりかねない危険もある。謹慎の身である以上、そういう騒ぎだけは避けたい。
 そして俺達はろくに会話もしないまま店を後にした。考え事ばかりでほとんど蕎麦の味など分からなかった。誘ったはいいが身になる話も無しでは何の意味もない。ここで相手を慮り今一つ踏み込んだ事を訊けないのは、俺の記者としての欠点ではないかと嘆きたくなる。
 路地を出て通りに出ると、沖田はそそくさとした足取りで俺より先に歩道へ出た。このまま帰ってしまおうという雰囲気である。だが、このまま黙って別れる訳にもいくまい。何か些細な事でもいいから質問して足止めしよう。
 そんな作戦を練っていた時だった。突然沖田は足を止めて振り返ると、俺に向かって唐突に訊ねてきた。
「中尉さん、左目の怪我の具合は如何ですか?」
「えっ?」
 予想外の質問に思わず言葉が詰まる。
 ガーゼぐらいははみ出しているが、面で隠れているからはっきりと左目の怪我だとは分からないはず。第一、俺の怪我の事は沖田に話した覚えはない。だが、沖田は当てずっぽうではなく、明らかにそうと断定した口調で訊ねている。いやむしろ、俺が怪我をした経緯を知っていて皮肉っているようにすら聞こえる。一体どうして俺の怪我の事を知ったのだろうか。
「いや、その」
「御馳走様でした。それではおやすみなさい」
 返答出来ずに狼狽える俺を尻目に、沖田は一方的にそう告げてそそくさとその場を後にした。彼女の後ろ姿はあっという間に人混みに紛れて見えなくなってしまった。その一部始終を俺は、半ば呆然としながらただその場に立ち尽くし眺めるばかりだった。