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 翌日、俺は正午より少し早い時間に宿を出た。昨夜一晩考えたのだが、このまま大して掘り下げる所の無い死人祭りの取材を続けるよりも、この疑問の解決を優先する事にした。そのために彼女の情報を少しでも集めたい。まずは宿から一番近い昨夜の蕎麦屋を訪ねる事にした。
 昼間の町の景色は夜とは違って、全く平凡などこにでもある田舎の町並みそのものである。けれど、あの蕎麦屋までの道順はしっかりと覚えている。取り分け記憶力に自信がある訳ではないけれど、三日も滞在すれば少しは土地勘も付いてくるし、道順や建物を覚えるにもさほど苦労は無くなる。そういう町の見方が出来てくると、当初思っていたよりも小さな町ではない事に気が付いた。また、日中でもまるで人がいないという訳ではなく、ぽつりぽつりとではあるが人の姿は見掛けるようになった。やはり、偏見が田舎を狭く閑散とした場所に見せるのだろうか。
 昨夜の蕎麦屋は、通りを曲がった狭い路地沿いに構えている。暖簾には崩した書体で、そば、とだけ書かれた質素なもので、店の名前らしきものは見当たらなかった。町の人はこの店をどのように呼んでいるのだろうか。もしかすると、地名や店主の名前だけで通じているのかもしれない。
 暖簾を潜り、焦げ茶色のサッシ戸を開けて店内へと入る。昨夜は気付かなかったが、建物の中には鰹節の良い香りが染み付いていて、外と中の境界がはっきりとしていた。建物そのものも年季が入っており、如何にも昔から代々続いてる蕎麦屋らしい蕎麦屋だと思う。
「うわっ」
 直後、素っ頓狂な声を上げたのは、カウンター越しに立つ一人の若い青年だった。仕込み中で油断をしていたのか面を被っておらず、如何にも慌てている表情の素顔を晒している。頬はうっすらと赤く純朴そうな好青年といった顔立ちをしている彼は、声の印象よりももっと若く見えた。下手をすれば高校生と間違えてしまうかもしれない。
「すみません、ちょっと待って下さい」
 彼は慌てて側にあった面を取り顔へ当てる。それを付け終わる間だけ、これはマナーかと思い、彼の方から視線をそらした。蕎麦屋で仕込みをしているのだから何処の誰かなど今更訊くまでもない事なのだけれど、一応祭りの間は面を付けた者を詮索したり特定したりしてはならないそうだから、俺もまたそれに従うのが筋であろう。
「あの、まだ開店する時間ではなくて準備が出来てないんですけれど。申し訳ないですが、昼頃に出直して来て頂けませんか?」
「私は少々お訊きしたい事があるだけですから。すぐに退散しますよ」
「はあ。それで何でしょうか?」
「昨夜、私と一緒に来た女性の事なんですけれど。何処の誰か御存知ですか?」
「ええ、まあ。本人も言っていたと思いましたけど、自分と沖田は子供の頃からの同級生でしたから」
 うっかりしていたのだろうか、店主は彼女の事を沖田と名前で呼んだ。もっとも、それは既にこちらでも知っている情報だから、今更特別な事では無い。
「その沖田さんは、向こうの八幡神社にお住まいなんですか?」
「そうですけど。失礼ですが、そんな事を聞いてどうするつもりですか?」
「私は連山町で雑誌記者をしている者です。実は先日、取材中に道に迷って困っていた所を助けて頂いたので、改めてお礼に伺おうと思っていたんです」
 おとなしそうな外見とは裏腹に、案外警戒心が鋭い。少々面倒なタイプだと、面で表情が見えないのをいいことに顔をしかめた。彼の般若の面は不似合いに思えるが、かと言って自ずと下手に出る気質ではないのだろう。
「はあ、そうですか。でも、あまり関わらない方が良いですよ。と言うより、記者さんなら関わって欲しくありませんね。彼女は今、とても不安定なので」
「不安定と言いますと?」
「それこそ言えませんよ。地元の人ならみんな知っていますけど、部外者にはおいそれと話せる事ではありませんから。それに、理由なんてすぐ分かるんじゃないですか? 新聞だか雑誌だか書いてるんでしょ」
 そう店主はきっぱりと言い放ち、それ以上の言及について拒否する態度を示した。まるで被っている般若の面そのもののような、毅然とした意思の強さを感じさせる。
 そこまで強く断言するのなら、それは間違いなくあの東京での一連の事件の事だろう。すると、沖田と名乗る彼女は一体何者なのか、益々正体の気になる存在になってくる。大原氏は赤の他人の悪戯と言うが、店主の反応はそれとはまた異なるものである。同じ人物に対してこうも見方が変わるのは、意外となかなか起こらない事だ。必ず何か特別な理由があるに違いない。
 一体彼女は何者で、沖田家とはどういう関係なのか。この質問を店主にぶつけてみたかったが、今はタイミングが悪いという雰囲気は俺でも察する事が出来た。取材相手がこうなってしまった時はどう訊ねても余計に態度を硬化させるだけだから出直した方がいい、と伊藤は言っていた。ここは経験者に従い、今日はこれくらいにしておいた方が良いかもしれない。
「分かりました。ありがとうございます」
「くれぐれも、沖田の事は引っ掻き回さないで下さいね」
「はい、注意します」
「お願いしますよ。それと、今度はお客さんとして来て下さいね」
 最後に当たり障りのない言葉を幾つか交わし、俺は蕎麦屋を後にした。彼はやたらしつこく沖田に関わるなと言っていたから、今後何か話を聞く時はますます自らの素性を悟られないようにしないといけないだろう。まさか彼までもいきなり刃物で切り付けて来たりはしないだろうと思いたいが、真っ向から見据えてくる般若の表情が目の前でちらつくと、彼にもそんな面があるかも知れないと不安になってくる。次からは多少警戒をしておいた方が良さそうだ。