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 一体いつの間に。
 単に偶然入れ違いになる寸前だっただけの事なのだろうが、あまりにもタイミングが良すぎる事に、俺は驚きを隠せなかった。面を被っていた事で表情が隠れていたのは幸いだが、一瞬の驚きでも額にはじんわりと汗が浮かんできた。今まで気にもならなかったのだが、辺り一面から聞こえて来るセミの鳴き声がやけに耳煩く感じ始めた。何も知らぬ間に僻地へ放り出されて唖然とする、まさにそんな様だ。
 以前からもそうだったが、沖田は俺への姿の表し方が非常に唐突である。それが、痩せ女という面の不気味さと相まって、時にはとても薄ら恐ろしい気持ちにさせられる。だから彼女はまるで―――。そんな事を考えていると、先に沖田の方から俺に話しかけて来た。
「何の用でしょうか、中尉さん」
「ああ、突然すみません。先日のお礼がまだだったなと思いまして」
「律儀な方ですね。そんなにご丁寧にして戴かなくとも、もう結構ですよ」
 そう話す沖田の口調はいつも通り抑揚に乏しく、どのような心持ちなのか量りかねるものがある。せめてあの面を外して表情を見せてくれればと思う。沖田に対するそこはかとない苦手意識は、この心持ちの読めなさだ。
「ところで、もしお時間があるのでしたら、アイスクリームを買って来たのでお一つ如何です?」
 沖田は側に置いていたビニール袋を掲げて見せる。どこにでもある、半透明のビニール袋だ。
「おお、それはありがたいです。丁度石段を登って来て暑い所だったんですよ」
 平静を装いながらも、俺は言い知れぬ違和感に内心沖田には警戒をしていた。沖田のビニール袋にはアイスクリームが丁度二つしか入っていない。それはまるで、俺の訪問を予見して買って来たかのように見える。しかも、当然アイスクリームはまだ溶けておらず、時間もぴったりに合わせて来たように思えてならない。
 本当に偶然なのだろうか。
 本来なら偶然で片付く事なのだけれど、昨夜の別れ際の彼女の言動が、どうにも俺に裏があるように勘繰らせてしまう。
 沖田と斜めに向かい合うベンチへ腰掛け、差し伸べられたアイスクリームを受けとる。どこか近くの商店で買って来たのだろうか、昔懐かしいカップアイスと、今時珍しい木のへらという組み合わせ。子供の頃、蓋についたアイスを舐め取ってお袋に叱られた事を思い出す。
 アイスは特にトッピングも無い地味なバニラだった。そして案の定、木べらは中々アイスには刺さらず、最初は削るようにして食べなくてはいけない。この奇をてらわないアイスが昔は普通だったけれど、今となっては逆に珍しい。そんな懐かしさも手伝って、一口二口と矢継ぎ早に頬張った。
「しかし今日も暑いですね」
「毎年こんなものですよ。まだ楽な方です」
「大分北に上ってきたから、もうちょっとましだと思っていたんですけどね」
 まさにこのアイスのように冷たい口調の沖田。その様子を然り気無く窺ってみると、ずらした面から覗く肌には、不気味な事に汗一つ浮かべていなかった。この人は暑さ寒さを感じるのだろうか? 当たり前の事なのだが、そう疑問に思わずにはいられなかった。
 そのまま更に、アイスを食べる沖田の顔を盗み見る。面をずらしている事で、普段は分からない顔が口許あたりまで見えた。当たり前だが、女性らしいふっくらとした口ときめ細かな肌をしていた。唯一気に留まったのは、顎に小さなほくろが一つあった事ぐらいだ。ああいうほくろをそのままにしておくのは、女性にしては珍しいと思う。あまり頓着しない気質なのかもしれない。
「ところで、沖田さんはお一人で神社を運営されているのですか?」
「ええ。今は他に出来る者はおりませんから」
 他の御家族の方は? 続けてそう訊ねたかったが、流石にこれは難しいと思い止まった。少なくともこちらは、沖田明里とその父親の事は知っているからだ。けれど、もしも彼女が赤の他人で沖田を名乗っているのなら、この質問に対してどう切り替えそうとするのか、それだけには興味がある。だが、まだ興味だけで博打は打てない。
「中尉さんの御家族は?」
「父母共に健在ですよ。まあ、まだまだ元気ですね。早く結婚しろが口癖になってます」
「そうですか」
「もうそろそろ還暦ですからね。そういう事を言うような歳なんですよ。私は一人息子ですから、親孝行しておかないとは思っているんですけれど、どうにも実家からは足は遠退いて」
「部外者の私が言うのも何ですが。親孝行なら早目にしておいた方が良いですよ」
「まあ、確かにそうですよね。昔から、親孝行したい時に親は無し、なんて言いますから」
「いいえ、そういう意味ではありませんよ」
「はい?」
「孝行したい時にいないのは、必ずしも親ではなく、自分の方かもしれないのですから」
 自分の方とは、この場合は俺自身の事を指すのだろうか?
 いきなり何を言い出すのか。そう戸惑い、視線で説明を求めてみたが、元よりお互いが能面で視界が狭い状態である。そんな微かなサインが届くはずもなかった。
「あの……良く意味が分からないのですが」
「分かりませんか?」
「はい」
 素直に返答したつもりだったが、沖田はまるでどちらでも構わなかったと言いたげに黙り込んでしまった。
 何が分からないというのだろうか。断定して言っているようにも思えなかったし、具体的にどうこうという単語も出てきてはいない。ましてや、それが俺の何に向けたものすらかも分からないのだ。だが、沖田は無言で面越しにこちらを見るばかりで、何も説明をしようとはしない。そればかりか、説明を求める事すらも許さないという空気すら感じる。きちんと問質したかったにも関わらず、俺はそれが出来なくて自然と黙り込んでしまった。
「あの」
「はい、何ですか?」
「溶けますよ。早く食べた方が良いかと」
 沖田にそう言われ、先程からアイスを食べる手が止まっていた事に気づいた。幾らこの暑さでも、そんなにすぐには溶けない。けれど、俺は素直に従って黙々と残りのアイスを食べる事に終始した。正直な所、何をどう話せばいいのか頭が混乱していた。沖田がどんな意図でこんな事を言っているのかを考えるよりも、ただただ異様な雰囲気に圧倒されてしまったのだ。多分、一度場を離れなければ調子は戻せない。ひたすらアイスを食べながら、ひしひしと敗北感に似たものを感じていた。