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 当てが外れた事もあって、午後は他に予定を考えていなかった俺は、ひとまず宿へ戻り沖田からの連絡を待つ事にした。張り紙には夕方まで戻ってこないような事が書いてあったけれど、うっかり予定が繰り上がってくれる事もあるかもしれない。それをそこまで期待している訳でもないのだが。
 部屋の荷物は既に大方片付け終わっていて、いつでも東京へ戻る準備が出来ている。原稿も草稿が済み、後は今夜の閉幕の事だけを残すのみである。今は待つ以外に何も出来ないしする事がない。仕方のない事とは分かっているものの、どうにも退屈さだけは無視出来なかった。仮にも謹慎中の身である以上、あまり派手な事は出来ない。かと言って、何もせずにただ部屋で時間を過ごすのはあまりに苦痛だ。
 部屋の真ん中に寝転がりながら、携帯を開いて確認してみるもののやはり着信はない。いっそ伊藤にでも電話して、沖田明里についての資料の話でもしてやろうかと考えたが、社会部である伊藤は多忙を窮めておりそんな事に時間を費やす余裕などないだろう。これ以上の迷惑はかけられない。
 どうやってこの退屈を凌ごうか。そんな時だった。
「蘇我さん? いらっしゃいますか?」
 部屋の外に気配がしたかと思うと、そう呼び掛けられた。大原氏の声である。
「はい、いますよ。どうぞ」
 体を起こして返答する。部屋に入ってきた大原氏は、どこかへ出掛けていたのか動きやすいジャージ姿だった。
「お靴があったもので。お早いお戻りでしたね」
「ええ、実は例の彼女が留守だったもので」
「そうでしたか。でも、夜には帰って来るのでしょうし、祭りの会場で会えるかもしれませんよ」
「連絡先も残して来ましたから、まあ何とかなりますよ」
 そこで、ふと思い返した大原氏の言葉が気になった。夜には帰ってくる。確かにそう言った。俺は留守にしていたとだけしか話していないのだが、何故そんな事を口にしたのだろうか。単にこの町での一般論というだけの事かもしれないが、どうにも俺はそのまま聞き流せなかった。単に普段から斜に構えて見ているから、そういう穿った見方しか出来ないのだろうか。
「ところで原稿の方はよろしいのですか?」
「まあ、それなりには出来上がっていますから。もっとも、採用されるかどうかは分かりませんからね。何せ、こうなった経緯が経緯ですから」
「そうでしたね。あれから三浦さんとは何かお話はされました?」
「いえ、まだ。向こうへ戻ってからそれとなく訊ねるつもりですけど、実はそこまでこだわってもいないんです。自分の物の見方がどれだけ一方的だったのか充分知る事が出来ましたから」
「やはり、沖田さんの事なんでしょうかね」
「おそらくは。再取材の事では私も食い下がりましたからね。会社が事件の騒ぎをどう収めようと四苦八苦している時に、会社は無責任だとかそんな事を言って。これ以上騒ぎを大きくするのは遺族にとってどうなのか見て来い、という事なんだと思います。とりあえず今はそういう解釈です」
 そこでふと、俺は沖田家の事について自分が何も取材らしい再取材をしていない事を思い出した。いや、それは全く失念していたという訳ではなかった。ただ、自分の立場上あまり騒ぎになるような目立った行動を起こす訳にはいかないのと、沖田と名乗る彼女の登場で、無策で触れるべきではないと自重していたのだ。それに、所謂被害者遺族の気持ちを軽く見ていたせいもあるかもしれない。少なくとも、沖田に対して自分の素性を明かす以外の事を話そうという気分にはとてもなれない。遺族の溜飲をうまく下げるような器用な立ち回りを、自分には出来そうにないからだ。
「あの、蘇我さん。繰り返しになるのですが、本当に例の女性に素性を打ち明けるおつもりですか?」
「ええ、そのつもりです。出来ればこのまま顔を会わせず明日には帰ってしまいたいですけれど」
「そう仰るという事は、するとどうなるのかは想像はついておられますよね」
「そうですね」
「罵倒されますよ。散々に」
「それで溜飲を下げてくれればありがたいですけどね。どの道、会社は認めてはいませんが、事件の原因を作ったのは私ですからね。今更知らん顔出来ませんよ」
「ですが、彼女は沖田家の人ではありませんよ」
「彼女が誰であっても同じですよ。亡くなった沖田明里さんにしても、その父親にしても。ただ、ずっと遺恨を残していたまま帰るのは、どうにも気が引けるんです。それに、この町の祭りに恨みを持ったまま来年も加わらせられないでしょう。祭りに居るのは良い人だけなんですから。今年は私のようなイレギュラーが居ましたけれど」
「そうですか。蘇我さんがご承知の上でという事なら、私もこれ以上何も言いません。ですが、一つだけ。知っておいて頂きたい事があります」
「何でしょう?」
「私は客商売ですから、嫌な客にも笑顔は作れます」
 ほんの一瞬だったが、いつもにこやかだった大原氏の表情から笑みが消え、鋭い眼光が俺に突き刺さった。思いも寄らない奇襲に、俺は思わず硬直し息を飲んだ。
 今まで大原氏は、デスクの知り合いだったから部下の俺にも協力的だったのだと思っていた。けれど、実際は俺の想像が全てではなかったのだ。そう、少し考えれば分かる事なのだ。この町の人間なら、あの事件の当事者について怒りを持っていて当然なのだ。
「では、私は失礼いたします。御夕食はいつも通りでよろしいでしょうか?」
「え、ええ、お願いします」
 こちらの動揺など見えていないかのように、大原氏はまた普段の振る舞いに戻ると、そのまま部屋を後にした。静まり返った部屋で俺はしばしの間息を飲み、そしてゆっくり溜め息を付いた。デスクは俺をどうしたかったのか、また急に分からなくなってきた。大原氏の気持ちは当然だとして、それならこの町は俺にとって完全に針の筵である。協力の得られない場所で取材など出来るはずもなく、沖田家に謝罪するにしても神社は無人だ。その上、未だ正体の分からない沖田と名乗る女性である。
 一時期俺は、沖田を亡くなった沖田明里ではないかと本気で考えていた。だから、実は俺は沖田明里の恨みによってこの針の筵へ呼び寄せられたのではないのか。そんなオカルトめいた事が脳裏を過ぎった。