戻る

 一週間ぶりの自社へ着いたのは、既に夕方を回った時分だった。土曜日であるため会社の中は人が少なく、あまり目に付きたくなかった俺には都合が良い雰囲気だった。あれから事件も多少沈静化はしているとは思うが、奥之多町での顔を隠した生活に慣れてしまったせいで、素顔を晒して歩く事に少し抵抗感があった。
 別段顔見知りに出くわす事もなく、自分の所属する生活文化部へ向かう。オフィスは明かりがついていたものの、仕事をしている者は見掛けなかった。唯一、オフィスの奥の席に座るデスクを除いては。
「なんだ、わざわざ寄ったのか。週明けでも良かったんだぞ」
「まあ、ちょっと話したい事もあったので」
 鞄を自分の机の上へ置き、デスクの方へ向かう。デスクは自席に何枚もファイリングした書類を積み重ね、今も作業に追われている真っ最中だった。多分、月初の定例作業が滞っているのだろう。日中は他の仕事で手が回らず、やむ無く土曜日に出てくるのはよくある事である。他は通常通り休みになっているから、こういう話をするには実に都合が良い。
「それで、取材はどうだった?」
「色々ありましたが、良い経験になりましたよ。月曜の朝一には原稿も出します」
「そうか。まあ、分かってはいると思うが」
「原稿の事ですよね。分かってます。それでも、手は抜かずにやりましたよ」
 俺の出張取材が、俺を事件から遠ざけて世間のほとぼりが冷めるのを待つ方便である事は、初めから十分承知である。従って、今回の記事も実際に掲載されるのかどうかは分からないし、あまり期待も出来ない。むしろ、このままお蔵入りになる可能性の方が高いだろう。
「丁度今日な、今後お前をどうするのかが決定したぞ」
「はあ。今度は何処ですか?」
「当分は此処だ。内勤をやって貰う事になる」
 それは暗に、取材にも出るな、という事を表している。校正や加筆等、誌面の管理的な役割になるため、出世と言えば出世かもしれない。だがその分、自分の思ったような取材は出来ないし、自由に記事も書けない。そして、仕事が無ければ雑用にも使われる。そして一番大きな点は、これでますます自分がこの生活文化部に深く根を張らされる事だ。再三繰り返した社会部への転属願いに対する、上層部からの最終通告とも捉えられるだろう。このまま定年まで、この部で飼い殺しにされる。そういう事だ。
「まあ、いい加減に諦めろという事だな」
「そうですか。じゃあひとまず、次の株主総会で役員人事がどうなるか決まってから考えますよ」
 勝手にしろ、とデスクは呆れた顔で溜め息をついた。
「その様子じゃ、俺が何故奥之多町に行かせたのか分かってないようだな」
「分かりますよ。沖田明里の妹にも会いましたから。おかげで、自分の取材がどう不味かったのか反省出来ました。良い勉強をさせて貰ったと思います」
「会って何も言われなかったのか?」
「散々に言われましたよ。正面切って」
「それで、これでもまだ再取材したいとか言うのか?」
「流石に頭は冷えました。次からはもっと慎重にやろうと思います」
「お前に次は無い。ったく、いつまでも余計な事をしようとするから、お灸のつもりだったんだがな。遺族や親戚筋に罵られてくれば、ちっとはマシになると期待したんだが」
 舌打ち混じりにぼやくデスク。やはりそれが、俺を奥之多町へ送った一番の理由だったようである。おそらく、俺がうちひしがれて帰ってきて従順になる事を期待したていたのだろう。以前と変わらぬふてぶてしい態度を見せられては、やはり面白くはないはずだ。
「でも、事実を伝える事が我々の使命でしょう? そこがぶれる訳には」
「使命じゃなくて商売だ。まだ分かってないんだな、お前が社会部に回されないワケが。お前のそういう所は、社としては迷惑なんだよ。勝手に足並み乱そうとする奴に、重要な報道がさせられるか。下手すりゃ命取りなんだぞ。今回は運が良かったと、どうして思えないんだ」
 事実を有りのままに伝えるのが、公器の本分ではないのだろうか。報道の内容にいちいち周囲の了解を得るような調整に奔走する事は間違っているし、報道機関としての機能不全である。そう反論したかった一方で、自分の起こした一連の事を振り替えると、自分はとても反論出来るような身の上ではないと思った。報道する内容には、何かしらの広い合意が必要である。それが欠ける事で問題が起こる。今回はそれがたまたま沖田明里であって、その後に俺自身へ返ってきた。合意を、持論だけで無視し問題を起こした人間、確かに客観的に自分自身を見れば、相当な厄介者に思えてくる。視点の違い、と言ってしまえばそれまでだが、個人の視点と会社の視点とで、社会的にどちらが優先されるかは自明であろう。
「それで、遺族には何て言われた?」
「いっそ死んだらいいと」
「ハハッ、なかなか手厳しいじゃないか。俺もそう思ってるよ。そうすりゃ、お前の世話から解放されるからな」
 冗談めいた口調でデスクは笑うが、おそらく限りなく本音に近い言葉だろう。自分がしでかした事で、デスクに対する罪悪感があるから、そう聞こえるだけなのかもしれない。けれど、自分と周囲とを秤に掛けてもあっさり自分を選ぶのが己の性分という自覚はあるから、こういったデスクの心境も仕方ないと思う。
「さて、もう他に用事はないか? 無いなら早く帰って休め。俺も仕事が残ってるんだ」
「分かりました。お手を止めさせて申し訳ないです」
 結局の所、全ての記者が聖人君子でも無い限り公明正大な報道など有り得ないのだ。そして凡人は理想か保身のどちらかに傾く。ふと、自分が一体仕事の何に拘っていたのか分からなくなってきた気がした。明確な理想はあるものの、今している事はその理想に背きかねない事である。自分は、理想とは逆方向へあさってを見ながら歩いている、そんな心境だ。
 そんな事をわざわざ此処で考え込んでいても仕方が無い。俺はデスクに軽く一礼した後、自分の荷物を持ってオフィスを後にしようとする。そこで、
「おい、蘇我」
「はい?」
 デスクに呼び止められ、振り向く。
「次、こういう事をするのは、俺が定年になった後にしろよ」
「分かりました。うまくやります」
 自分では笑ってみせたつもりだったが、うまく表情を作ることが出来なかった。