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 伊藤から電話が来たのは、日曜日の夕方、丁度明日に提出するつもりだった原稿が仕上がった時だった。
 向こうも仕事が一段落ついたのでこちらの出張取材の話も聞きたいらしく、近くの店で飲む約束を決めた。俺も丁度伊藤には訊いておきたかった事があり、向こうから席を設けてくれるのは渡りに船である。
 約束の店へ着くと、既に伊藤は来ていて先に飲み始めていた。普段よりも髭が濃くシャツもよれていて、如何にも一仕事を終えてきたという風体でいささか羨ましくも思えた。
「よう、まずは遠いところの取材、ご苦労さんってとこだな」
「ご苦労はお互い様だな」
 伊藤はもう酒が回っているようで、いつになく上機嫌だった。たった十数分の差でかなりの量を飲んだのか、もしくは疲れのせいで普段より回りが早いのだろう。
「どうだった、取材の方は?」
「まあまあだな。のんびり羽を伸ばさせて貰ったよ。明るくなったら起きて、暗くなったら寝る。東京と違って、実に健康的な一週間だった」
「つっても、遊ぶ場所には苦労するだろ? キャバクラどころか、飲み屋すらそうそう無いだろ。ただでさえ東京モンは目立つし」
「あくまで仕事だからな。そんな店は無くても平気さ」
「はあ、大した大義名分だわ」
 そう肩をすくめて笑う伊藤。随分と酔っているせいで、変に芝居がかって挙動がおかしく見えた。かなり先を越されたと感じた俺は、早く追い付こうと一杯目のビールジョッキを三口で空にし、すかさず次を注文する。
「ところで。これ以上訳が分からなくなる前に訊いておきたい事があるんだが」
「何だよ、急に改まって」
「例の、送って貰った資料の件だ。まあ、一応は助かったんだが」
「そうだろう。大分無茶したんだからな、感謝しろよ。万一見つかりでもしたら、懲戒ものだぞ」
「だが、おかげで余計な事に振り回されたよ」
「余計な事?」
 苦労をしたのは自分なのに、と心外そうな顔をする伊藤。涙を流して感謝されこそ、そんな言われをされる筋合いはない、今にもそう言い出しそうだったが、酔っているせいかすぐにそこまでは舌が回らず、ぱくぱくと口を動かすだけに留まった。
「あの資料なんだが、どうして妹の事が綺麗に抜けていたんだ? すっかり、二人家族なんだと思い込んだじゃないか」
「はあ? 当たり前だろ、そんなの。そうでもしないとお前、妹との所に行っただろう? それで余計な騒ぎが起こる事なんて目に見えてるさ。騒がれでもしたら、俺にだって疑いが及ぶかもしれないんだから」
「なるほどな。いや、お心遣い感謝する、と言いたい所なんだがな。肝心のその写真、間違ってたぞ」
「え? 間違ってるって、マジか?」
「ああ、あの写真はその妹の方だ」
「おおっと、俺も最近若い娘の顔が見分け付かなくなって来たのかなあ」
「お前はおおっとで済むがな。考えてもみろ。自分が姉の方だと思っていた人物と同じ顔が目の前に現れたらどうする?」
「幽霊かって思うな」
「それもお盆の祭りの時期にだぞ。まったく、参ったよ」
「ははっ、奇跡的な偶然だな」
 偶然と言ってしまえばそれまでだが、確かに普通では起こりようのない出来事だったのは確かである。沖田真由美は俺をからかう程度ぐらいにしか思っていなかったようだが、俺が勝手に死んだはずの沖田明里と勘違いしてしまった事で要らぬ心労を負う羽目になった。あの事態に陥った決定的な原因は、どう考えても伊藤の資料のせいである。もしも正しく沖田明里の写真が送られて来ていたなら、あそこまで取り乱す事も無かったのだ。
「あれ? お前、結局妹には会ったのか?」
「向こうが俺が来ることを知っててな。幽霊の振りをして、散々からかわれた」
「なるほど。だったら良い供養になったじゃねえか。あながち俺のミスも悪くはなかったな」
「お前、酔ってるからって遠慮が無いな」
「下手におためごかしされるより気が楽だろ」
 そう愉快そうに笑う伊藤に、俺は眉をひそめながら苦笑いする。伊藤は基本的に遠慮というものがない。俺が重役の身内という事も知った上で、思った事はずけずけと遠慮無く言うし、また何時までもほじくり返すような陰湿さとは無縁だ。これが、他の同期とは疎遠になっても、伊藤とだけは長続きする理由だろう。何をするにしてもしがらみの多い中で、唯一伊藤だけが気の休まる存在である。
「それで、お前これからどうなるんだ? 処分は決まったか?」
「当分の間内勤だよ。取材にすら出て行けなくなった」
「ははあ、これを機に定年まで飼い殺しにしておくつもりだな」
「なに、組合に訴え出るなどまだまだ手段はあるさ。別にまだ諦めた訳じゃない」
「おいおい、物騒だな。もう騒動は御免だぞ」
「ま、うちのデスクが定年になるまでは過激な事はやらんさ」
 そんなに後の話でもないだろう、と伊藤が苦笑いしながら俺を小突く。しかし、俺は否定もしなかったし、冗談だとも明言しなかった。自分では冗談のつもりはさらさらないし、むしろ良い手段があれば、多様行動を早めても良いとさえ思っている。それを口にすると、またどうせちくちくと言われるのは分かりきっている。しばらくは大人しく潜んでいたい、という点については俺も同じ考えである。そして、出来るなら巻き込まれる人間は少ない方がいい。自分の都合の押し付けに人を巻き込むのは後味が悪くなる、それはこの一件で嫌というほど身に染みたのだから。
「結局、お前はまだ社会部を諦めてないんだな。そんなにいいもんじゃないんだけどなあ」
「人間一つくらい目標があった方がいいのさ。それが生き甲斐になる」
「真面目だな、お前は」
 それこそ、そんなに立派なものではない。そう苦笑いしながら答え、酒を煽って誤魔化す。
 自分がやろうと思っていることは、そう大層なものでもなければ立派なものでもない。ただ、決して妥協はしたくはない目標である。ふと、沖田真由美が、俺に向かって放った言葉を思い出した。この顔を一生忘れるな、そう沖田真由美は俺に言った。俺が記者を辞めないことも、形だけの謝罪を苦にしないことも見抜いていた。一方的な被害者の、唯一の反撃なのだと思う。それを受けた上で、奥之多町で口にした都合の悪いことは反故にして早々に元へ戻ろうとしている事は、きっと不誠実の塊のようなものだろう。そこまで品性を落としてこだわる理由があるのだろうか。重ねて考えれば考えるほど、どこか信念に揺らぎが生じてくるような気がして、怖くなってきた。
 人は善人であろうとするべきだと、一般論ではそうなっている。けれど俺の場合は、我を通そうとすればするほど誠実さとは逆方向へ行ってしまう。一切の罪悪感無く記者を続けたいという目標は、生まれながらの善人でなければ出来ない事なのだろうか。もしそうだとしたら、そもそもあってはならない職業なのかも知れない。酔いも手伝い、そう斜に構えずにはいられない気分だった。