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 点滴が終わるまで、あと十五分といった所だろうか。未だに慣れない居心地のベッドの上で仰向けになりながら、見慣れた天井の染みをぼーっとしながら数える。強めの麻酔がかかっているため、思考はいささかぼんやりとぼやけている。右腕には昔ながらの太い針が入っているというのに、その痛みや違和感は一切感じ無かった。ナノマシンを注入する際、体内でタンパク質の交換が行われて痛みを伴う事がある。それを予防するための麻酔なのだが、それは熱に浮かされている時の感覚にそっくりなので、未だに馴染めなかった。
 市内の片隅にある小さなクリニックは、平日の午後だというのに客足が絶えていないらしく、外の待合室から数人ほどの話し声が聞こえてくる。ここの診療には特筆するような専門は無いのだが、ナノマシンを扱っている事がこの盛況の理由になっている。ナノマシンは、今はちょっとしたブームになっている。取り扱いをしているだけで、個人開業医の規模ですら予約が殺到するのもそう珍しくはない。
 人が三人で一杯になるほどの狭い処置室には、俺の他に看護師が一人待機している。ナノマシンの拒絶反応が出た場合に対処するためなのだが、これまでナノマシンで拒絶反応が出た例は世界中でも本当に数える程度しかなく、出た場合は個人クリニックのレベルでは対処のしようがないのが現実である。国が決めた、半ば義務的な措置と言ってもいいだろう。俺自身も、初回に拒絶反応が出なかったため、それ以降は何も心配をしていない。
 意識がおぼろ気なせいで、時間の経過がやけに早く感じる。けれどそれはさほど長くも続かず、徐々に普段の思考の鋭さや肌の触りが戻って来る。投与された麻酔は、効き目が強い割に効果は長くは続かない。元は歯医者で、極端に治療を恐れる人や子供向けに使われる麻酔だったそうだ。子供にも使うくらいなのだから、副作用の心配も無い麻酔なのだろう。
「はい、ではそろそろ終わりですね」
 唐突に視界へ入ってきた看護師が点滴を止める。いや、唐突に思えたのは、俺が麻酔でぼんやりしていたせいだろう。聞こえてくる音もいささかくぐもっている。
 針近くの方のチューブには、逆流した血が僅かにうねっている。看護師は速管から注射器でそれを体内へゆっくりと戻す。ナノマシンでない部分は戻してくれなくて良いのに。そんな事を俺は考えていた。
 看護師は吊るされたビニール製の薬袋を再度確認して口を絞った。そこへ繋がっているチューブ、そして途中にある液溜まりの中の流れが静かに止まる。この一リットルに満たない薬袋の中に、数十億というナノマシンが液体に混合されて詰まっている。一袋につき、成人一人のおよそ三パーセントの細胞をナノマシンへ入れ替える効果がある。マシンセルとの適応は個人差があるものの、割合はおおむねそんなものだ。そして、一度でもマシンセルを注入すると細胞との入れ替えは緩やかに一生涯に渡って継続される。繰り返し注入するのは、入れ替えの速度を速めるのが目的だ。保険も適用されるため、多少繰り返した所で実費は予防注射並みに安い。もっとも、どれだけ頻繁に点滴を受けても全身をマシンセル化するには至らないのだが。
「どうです? 気分は悪くありませんか?」
「ええ、大丈夫です。まだ麻酔が残っているようですが」
「あと十分もすれば抜けますから、それまでこのまま休んでいて下さいね。歩けるようになりましたら、待合室の方でお待ち下さい。面談がありますので、順番が来ましたらお呼びします」
 看護師のこの説明は、もう何度も耳にしているので覚えている。半ば聞き流しながら、視点は引き続き天井に向く。染みの数を数えるのが好きという訳ではないのだが、頭がぼんやりしている時はこれが一番楽な姿勢というのが理由だ。そんな俺を余所に、看護師は慣れた手つきで手早く針を抜き、刺さっていた箇所へ殺菌テープを貼る。それから器具をまとめて奥へと引っ込んでいった。今日もまた同じ事を何度も繰り返しているのだろう。いい加減嫌になってはこないのだろうか、と疑問を浮かべる。
 ナノマシンの注入は、今日で五回目となる。今日の検査時点で俺の体は、およそ二割近くがナノマシンに入れ替わっている。これは一般ではかなり高い数値らしい。ただ、特別な事は何も無い。多少市販薬に気を付ける程度である。
 思考のもやが徐々に取れ始め、全身がのしかかって来る重力を感じ取り始める。麻酔が効いている間は浮遊感があったのだが、それが切れると一転して体が鉛になったように重く感じる。感覚がある程度戻って来た所で、ゆっくりと上半身を起こしにかかる。体は重くやや気怠さがあった。その上、昼食を抜いているため空腹で胃が軋んで辛い。けれど、ナノマシンが馴染むには夕方までかかり、その間は水しか取ることが出来ない。空腹は意識すればするほど辛くなってくるから、今まさに体内を巡っているであろうナノマシンの事について想像を働かして、それに集中する。
 待合室へ移動すると、三つ並んだ長椅子にはそれぞれ一人ずつ患者が座っていた。一人は老年の男、一人は同い年くらいの男性、一人は中年の女性だ。どれも、表情はあまり芳しくなく漠然とした不安を覗かせている。自分と同類だ、と俺は思った。そもそもナノマシンを注入しようとするのは、健康不安を日常的に感じる人に多い。従ってナノマシンを扱う病院には、似たようなタイプの人間が集まって来る。
 一番後ろの長椅子の端に腰掛け、携帯を開いて覗く。メールが一通来ていたが、恐らく急ぎのものではないだろうから確認せずにそのまま閉じる。しばらくの間備え付けのテレビを眺めていると、ふと尿意を覚えてトイレに立った。点滴した液体は、大半が体を通過するだけの液体である。点滴が終わった後に催すのはいつもの事である。ナノマシンは今細胞のあちこちに張り付き、それ以外の液体は腎臓を通してすぐに排泄される。その特徴上、ナノマシンは排泄器官には定着がし難く、それらをナノマシン化するには専門の点滴法がある。俺はまだ排泄器官は素のままだが、次回辺りから着手する事になるかもしれない。
 トイレから戻ると、老年の男性の姿が消えていた。おそらく処置室に入って点滴を始めたのだろう。彼の健康不安がどんな物なのかは知らないが、大抵は加齢によるごく自然なものである。ナノマシンは若返りが出来る訳ではないのだが、半ば万能薬のように信奉している者は少なくない。病院としても貴重な収入源になる訳だから、わざわざ止めるような事もしたりはしない。ナノマシンが広まり始め、誤差と無視が出来ないレベルで傷病者数は年々減って来ている。病院にとって患者は取り合う時代なのだ。
 しばらく待合室で待っていると、丁度三人目の所で診察室の方へ呼ばれた。処置室よりも更に一回り小さな診察室には、顔見知りの医師と先程とはまた別の看護師がいて、俺が入ってきた事でいっそう窮屈さを増した。処置室はともかく、診察室は早く改装して広く直して欲しい。ここへ来るたびにそう思う。
「お変わりはありませんか?」
「ええ、いつも通りです。ナノマシンの拒絶反応が出ないのはありがたいんですけど」
「まあ、それは本当に稀な事ですからね。熱の方は如何です?」
「これも相変わらずです。一昨日も、九度八分まで出ました。一晩で引くには引いたんですが」
「一晩程度で下がるなら大した事ではないんですがね。昔からとは言っても、こう頻繁にというのはちょっと普通ではないですから」
 俺は子供の頃から一ヶ月に一度は高熱が出て寝込む日があり、それが未だに続いている。健康な成人男性ではまず有り得ない発熱のペースだ。原因が分かれば治療のしようもあるのだが、それが未だに分からないためにナノマシンの投与に踏み切った。熱は未だに出てはいるが、内蔵のナノマシン化が進んだ今となっては原因などどうでも良くなってきている。
「検査ならこれまでも沢山受けましたが、困った事に何も見つからないんですよ。生まれ持った体質と思ってます」
「虚弱体質なら、熱だけじゃ済まないはずなんですが。まあ、いずれにせよこのままナノマシンの投与を続けていれば、いずれ発熱も起こらなくなりますよ。定着も順調のようですから。今日の所は解熱剤だけ処方します。酷いような時に使って下さい」