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 俺の職業は、薬局に常駐する薬剤師である。薬剤師と言っても、開店前の朝に出勤し午後は当日に締め切った調剤の仕事が終わった所で帰宅するの繰り返しで、ごく一般的なサラリーマンと勤務形態はあまり変わらない。薬剤師になるには国家資格が必要ではあるものの、給与水準もサラリーマンと大差が無く、ことあるごとに増税の煽りを受ける点まで一緒である。
 その日の朝もいつも通りの時間に薬局へ出勤し、開店準備を皆とやった後に自分の仕事を始めた。俺が勤めているのは、市内に数十軒も店舗を展開する大手中堅クラスの薬局である。近場には総合病院もあるため、薬剤師の仕事は午前中から立て続けに舞い込んで来て一日中休まる暇はない。そんな中での俺の主な仕事は、処方箋の調剤と市販薬の相談だ。昨今はナノマシンのおかげで傷病者は極端な減少傾向にあり、処方箋の仕事は幾らか減ってきてはいる。その代わりに増えたのが、ナノマシン用の処方箋である。内臓をナノマシン化していると従来の薬では効果が変わる場合があるため、対処するための専門知識を持った薬剤師が必要になるのだ。俺の担当する薬のほとんどは、このナノマシン用のものである。ナノマシンの普及率の割に専門知識を持った人間はまだまだ少なく、おかげで食いっぱぐれる心配は当分無い。
 今日は、最近話題になり始めている新型インフルエンザの治療薬の処方箋を持って来る客が、午前中から立て続けに五人もやって来た。まだテレビでは大流行の兆しは無いと言っているものの、このペースでやって来るのはあまり穏やかな傾向では無いと過去の例から感じる。あと一週間もすれば、無闇矢鱈にパンデミックという言葉がメディアを踊る事態になるだろう。そうなると、決まって薬局に処方箋も無しに処方薬を手に入れようとする者が殺到し、それらの対応に非常に苦労させられるのだ。
 今は体のナノマシン化を始めた人間がかなり多くなっているため、このような混乱は以前よりもずっと大きくなるだろう。ナノマシン用の治療薬が速やかに製造されるのであれば混乱は起きないのだが、現状それはまだ難しい状況である。
 インフルエンザの厄介な所は、新型用の治療薬がすぐに製造されないという点にある。加えて、ナノマシン用の治療薬は更に遅れて製造がされるため、本当に必要な時期を外してしまう事は少なくない。ナノマシン用の製造が後回しにされる理由は至極単純で、インフルエンザが発症するのは比較的ナノマシン化の少ない人間なのだが、それは全体では子供より少ない少数派であるためだ。毎年のように繰り返し発表される、あらゆるインフルエンザをまとめて治療する画期的な新薬の話も、未だに目に見えて成功した試しはないが、今年こそはうまく出来て貰いたいものである。今からでもそう願わずにはいられない。
 昼休みを挟み、午後になってもインフルエンザ治療薬の処方箋は後を絶たなかった。治療薬はインフルエンザウィルスに直接作用するもので、それ以外に抗炎症剤や解熱剤、鎮痛剤などが一緒に処方されるのが一般的である。ただ、今日の処方箋を見ていると、中には治療薬のみを処方されているケースが幾つかあった。おそらく、発症前の予防用に処方されたためだろう。外来患者に治療薬を予防目的で処方するようになったのは、ここ数年の話である。以前までは医療関係の業務に従事している人間に限った特例だったのだが、やはり病院ごとの患者数が現象してきたためなのだろう。薬剤師は本当に必要な処方なのかどうかを確認し判断する義務があるものの、上からの指示のある特定の薬に関しては口出ししない事にしている。要するに、慣例的な灰色の繋がりというものがあって、それは雲の上の事だから、俺のような末端社員は首も突っ込まないし疑問も持ってはならない、そういう事だ。
 俺の勤める薬局は午後三時で処方箋の受付を締切る。病院はまだ受付をしているのだが、夕方に診療を受ける患者の大半は重病患者では無いため、処方箋もさほど忙しくはならないのだ。どうしても必要な重病の場合は例外的に受け付けるが、単なる痛み止め程度は他の薬局へ回って貰う。
 受付けた分の処方箋の数は日によってまちまちで、その内容も一定ではない。今日は予想通り、インフルエンザ治療薬関係が非常に多く、行う作業も非常に似通っていた。普段なら痛み止め用の座薬や循環器の拡張剤、糖尿病の常用薬といった、生活習慣病に関連する用の薬が多い。如何にもインフルエンザの流行一歩手前、という状況に気が気ではなくなる。俺はインフルエンザに感染しても発症しないほどナノマシン化が進んでいるものの、絶対に発症しないという訳でもなく万が一という事がある。その際はナノマシン用の治療薬など無いのだから、非常に苦しい思いをするだろう。患者との接触も多いため、昔から言われているうがい手洗いといった原始的な対策からは未だに逃れられないのだ。
 処方箋の調剤も終わり、そろそろ調剤局を閉める時間に差し掛かろうという時だった。一人の老婆が慌てるように滑り込んできて、鞄の中で揉まれたらしい折れ曲がった処方箋を付き出してきた。今日はこのまますぐに帰れると思っていただけに、思わず客商売という事を忘れて舌打ちをしそうになる。表情を取り繕いながら処方箋を受け取って見ると、それは皮膚病の患者に処方されるもので、中でもかなり強い部類のものだった。新たに調剤する必要はなくすぐに渡せる薬なのだが、物が物であるため幾つかの質問と確認をする。老婆は長年この薬を使っているのか、すらすらとよどみなく質問には答えた。特に問題はないだろうと判断し、薬を渡して会計を済ませる。その際、老婆の左手が袖の隙間から少しばかり見えたのだが、おそらく袖の下がびっしりとナノマシン化している事に気が付いた。おそらく藪医者にでも当たったのだろう、かばうようなぎこちない動きを見せている事から、粗悪なナノマシンで腕が動かなくなってしまったようである。
 長年患った皮膚病が良くなると思って、あまり調べずに受診してしまったのだろう。運の良し悪しもあるが、何とも気の毒な話である。俺は左手の事には気付かない振りをして老婆を見送った。
 そして、その日は最後に自分用の解熱剤の処方を作って、いつもとさほど変わらない時間に帰宅した。本当はもっと早く帰りたかったものの、まだ店の営業時間であるため、未だ業務中の同僚を見ていると自分は贅沢な事を言っているなと思った。