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 送迎車に揺られること十数分。程なく俺達は目的の宿に到着した。車中での様子から、駅から大分離れた山奥にある事は想像がついていたが、小高い山の頂きという立地は非常に見応えのある景色となっていた。コンクリートの建造物が周辺に無いだけでも十分な息抜きになるのだが、遥か遠くまで見渡せるようなこの解放感は自分でも驚くほど気持ちを穏やかにし、体の隅々まで染み込んだ見えない毒を浄化してくれているかのようだった。
「どうです、素晴らしい眺めでしょう? 当館の自慢の景観ですよ」
 車から降りて景色を堪能している俺達に、送迎役の男は荷物を下ろしながらそう説明する。広い駐車場には数台の乗用車の他、大型の観光バスが一台止まっていた。今週はさほど客も入っていないのかと思ったが、オフシーズンではこんなものなのだろう。
「今日降りた駅はあの辺りですか?」
「そうですね。ほら、高架線が見えますでしょう? 今日ぐらいの天気ですと、列車もちゃんと見えますよ」
「あちら側には何がありますか?」
「大体は何も無い山道です。元々、お客様におくつろぎ頂くため、出来る限り何も無い土地を選んで開業いたしましたので。ですが、当館の裏側には人工の蓮沼がありまして、大変好評を頂いておりますよ。是非お立ち寄りになって下さい」
「他には何かあります?」
「そうですね。向こう側の山の中腹辺り、御覧になれますか?」
「ええと、あれは牧場かしら?」
「その通りです。色々な動物との触れ合いが楽しめますよ。今なら乗馬体験も出来たはずです。車で十分程ですから、レンタカーでも借りると宜しいかと。フロントへ言って頂ければ手配しますよ」
 二人の会話を聞きながら、俺も件の山の中腹へ目を凝らして見る。しかし、何やら草原のような平地と小さな建物ぐらいは分かったが、牧場かどうかまでははっきりとしなかった。この送迎役の男もキョウコ同様に視力がかなり良いらしい。都会ではそんな視力を必要とするシーンはそうそうないのだけれど、俺も次は目をナノマシン化しようかと思ってしまう。
「イサオさん、明日行ってみませんか?」
「いいんじゃないの? 流石に、一日中温泉に浸かってる訳にもいかないからね。それより、そろそろ腹が空いたな。昼食はどうする?」
「でしたら、館内にあるレストランをご利用下さい。丁度ランチの時間ですから」
 緑鳴館の正面玄関は洋風の小綺麗な佇まいで、思っていたよりもずっと高級感のある雰囲気になっていた。中に入ると、ロビーもまた奥行きがあって広く、多くの皮のソファーとガラステーブルが並び、一番奥には投影型の最新式らしいディスプレイが備え付けてあった。また大きなガラス戸越しに純和風のかなり凝った中庭も見物出来るようになっている。館内は照明にも気遣っているらしく極めて明るいのだが決してぎらついた下品さは無く、むしろ清潔感が引き立っているように思う。昔の温泉宿とは違い、かなり館内の内装や独自の雰囲気作りに力を入れているように感じた。
 キョウコが宿帳と受付を済ませた後、宿泊する部屋へと案内される。案内された部屋は、出入り口に梅の間と筆字で書かれた表札が掛けられいる。中は全面畳み張りの広い和室だった。別途トイレと洗面室があり、外にはこの部屋専用に区切られた広いベランダがあった。
「思ってたよりずっといい部屋だな。これであの値段なら随分安いなあ」
「今はオフシーズンというのもありますから。それに、旅行会社の限定プランですし」
「採算をあまり考えない、広告目的のものなのかな。おっ、ベランダ見てみろよ。あれ露天風呂じゃないか? この部屋専用の。ちょっと狭いけど一緒に入るか」
「まだお昼ですよ」
「普通は明るい内に入るものだろ。せっかく温泉に来たんだから。んじゃ、昼飯の後な」
 キョウコの苦笑いに気付かない振りをし、俺は嬉々として部屋のあちこちを物色して回った。自分でも驚くほどはしゃいでいるのが分かった。旅行なんてまともにした記憶が無いだけに何でも新鮮に見えてしまうから、いい歳をしながらついつい浮かれてしまっている。まるで初めての修学旅行のようだ。
「随分嬉しそうですね。昨日はそんなに乗り気には見えませんでしたけど」
「しょうがないだろ。だって、こういうのは修学旅行ぶりなんだから」
「あら、そうでしたか? ちなみにイサオさんはどちらでしたか?」
「場所? ああ、それは……」
 学生の頃の記憶を彫り出して行き先を思い出そうとし、そこでふと俺は気が付いた。俺は修学旅行はどこへ行ったのか、すぐ思い出せなかった。昔と言ってもたかだか十年程度、日常の記憶ならともかく、節目節目にある行事ぐらい普通は覚えているものだ。特に楽しい思い出は、誰でも断片的にでも残っているはずなのに。
「ああ、どこだったかなあ。まあ奈良とかじゃないかな。普通だった記憶あるから。キョウコは?」
「私は北海道です。スキーなんかしていましたよ」
「スキーか、それもいいな」
「本当はスノーボードが良かったんですけど、丁度旅行の直前に死亡事故がニュースになってしまいましたから」
「それもまたタイミングが悪いな」
「本当ですよ」
 そんな談笑をしつつ、ひと通りの部屋の物色を済ませた。それでもまだしばらく、修学旅行の事が思い出せないのが引っ掛かったが、程無く空腹が更に強くなったせいで昼食の事に頭の中が取って変わられてしまった。