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 荷物を置いて一息ついた後、昼食を取るべく部屋を後にした。時刻は既に昼時で、朝あまり食事を取っていない俺は既に空腹が限界だった。廊下の案内板を見ると、館内のレストランは俺達の部屋の二つ上、この旅館の最上階にあった。創作和食の店と書かれているが、営業時間も含めて他に記述が無くどうにもいい加減な印象で、本当に営業しているのか不安を感じさせた。エレベーターで実際移動してみると、その店はフロアが丸ごとレストランとして営業している実に広い店だった。食品サンプルの入ったショーケースの中はありきたりなものばかりで今一つぱっとしなかったが、張り紙には仕入れに応じたメニューもあるらしくそちらに期待するしかない。
 店内に入ると、他に客が一組いただけで全体的に閑散としていた。お好きな席に座って良いと店員に言われたので、俺達は窓際の見晴らしが良さそうな席に着いた。他に客がいないせいで店内はあまりに静かで、自分達のちょっとした会話すら響くのは何とも居心地が悪い。
「これがメニューか。まあ、良くあるものばかりだなあ」
「この、名物れんこん定食というのがこちらのお勧めのようですね」
「れんこん? 幾ら何でも、ここまで来てれんこんてのもな。何でれんこんなんだろう」
「きっと、この蓮沼にちなんだと思いますよ」
 そう窓の外へ視線を落とすキョウコ。窓越しの眼下には緑色の葉がひしめく沼が広がっている。木の板張りになった橋が足場として掛けられており、ずっと向こう側まで沼を縦断出来る作りのようだ。送迎役の男が言っていた人工の蓮沼だろう。
「れんこんって、蓮の花の根だっけか。なるほど。でもいいや、俺は刺身定食にする」
 流石にこれだけ遠出しておいて、れんこんという地味な物を食べる気分にはなれず、俺は刺身定食、キョウコは律儀にれんこん定食を注文する。それとビールも一緒に頼んだ。昼間から飲む事など普段ならまずは無く、安易に旅行気分を味わうにはうってつけである。
 程無くして料理が運ばれて来る。懐石風の器に盛り付けられたそれらは、普段口にしている昼食とはまるで異なる実に豪華なものだった。刺身盛りの他、おひたしや焼き物等様々な料理が、如何にも高そうな小皿で見た目も華やかに盛り付けられている。もうちょっと値が張ってもおかしくはなさそうな豪勢さだ。
「あれ、それ本当にれんこん定食か? 普通に刺身もついてるんじゃん」
「ほら、こういう事もあるからお店のお勧めを注文するのが正解なんですよ」
 キョウコの分と見比べてみると、俺の方には無いれんこんの炒め物と煮物があるのだけれど、それ以外はほぼ同じように見え、何となく損をした気分になった。刺身定食は豪勢な六点盛りになっているので、れんこん定食の刺身ときちんと差別化は図られているものの、いささか自分の選択が失敗だったのではないかと思えてならない。
 ともあれ、せっかくのご馳走なのだから早速冷めない内に食べ始める。まず箸を伸ばしたカンパチの刺身は新鮮で脂も乗っており、思っていたよりずっと旨かった。ちゃんとした所から仕入れをしているのだろう。よく安価で売っている乾きかけた切り身とはまるでものが違う。おひたしや煮物も、あまり野菜好きでは無い俺でもすんなり食べられる野菜の嫌味が消えた味付けだった。特別濃い味という訳でもないのだが、何となく普通の店ではないような独特の味付けの筋が感じられる。ちゃんとしたプロの板前さんが作るとこういう味になるのだろうか。
「思ったよりちゃんとした食べ物が出てきたな。これで今の時間営業していなかったら、売店か店屋物を取って済ませる羽目になっただろうし、まずは一安心かな」
「周囲には他のお店がありませんから、こういう時は大体は大丈夫ですよ」
「大体は、って、大丈夫じゃなかったらどうするんだ?」
「それも旅の醍醐味です」
 そう笑うキョウコ。いつもおとなしい癖に、意外と豪胆な面もあるものだと俺は感心する。こと旅行に関しては、俺の方がずっと子供のようだと思わざるを得なかった。
「ところで、明日はどうするんだ? 何か観光の計画でも立ててる?」
「いいえ、特には。でも、送ってくれたあのおじさんが言っていた所に行くのが良さそうだと思います」
「ああ、何とかっていう牧場だっけ? ただの動物園よりは楽しいかもな。檻の無い所なんだろ」
「流石に穏やかな動物しかいないと思いますけど」
「普段電車にしか乗ってないんだから、馬に乗るだけでもスリリングだよ。キョウコも乗ってみるだろ?」
「私は運動音痴ですから遠慮します。見ているだけにしますので、イサオさんだけでどうぞ」
「なんだ、もったいない」
 せっかく旅行に来たのだから、都会では味わえない事を体験してみれば良いものを。少しでもいいから試してみればと食い下がってはみるものの、キョウコは苦笑いするだけで首を縦には振ってくれなかった。キョウコははっきりと承諾も拒絶もせず、困った時はいつもこういう顔をするのだけれど、折れてくれる時とくれない時との見分けぐらいはつく。乗馬は心底嫌のようだ。
 運動音痴やら方向音痴やら、そういう症状は正確には病気ではなくて適性の問題だから、病気のように治療出来るものではない。だけど、ナノマシンがそれら適性の問題も解決してくれるようになれば、キョウコも乗馬くらい平気で出来るのだが。まだそこまで万能なものではないから、解決をしたい人は地道に努力するしかないのだろう。