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 昼食も済み人心地つくと、旅館の裏にある人工の蓮沼を散歩してみる事になった。俺としては先に部屋の露天風呂に入りたかったのだが、温泉につかると疲れて出歩きたくなくなるから、先に回った方が良いとの事だ。昼食では失敗しているだけに、ここはキョウコの言う通りにする。
 蓮沼には正面玄関とは別に専用の出入り口があった。案内図に従って向かってみると、それは意外にもロビーの裏ではなく二階の通路の途中から専用の渡り廊下があって、中程に降りられる作りになっていた。おそらく、沼の縁にぐるりと柵を作って景観を損ねたくなかったのだろう。この大胆な渡り廊下の作りは昼食を食べたレストランの窓からは角度の関係で見えなかったようだが、この蓮沼は想像しているよりもずっと大きなものであることが分かる。
 渡り廊下の行き止まりから階段を降りていく。降りた先は、まるで蓮の花をイメージしたかのような板張りの円形の島だった。腰の高さほどの柵には注意書の看板がぶらさがっている他は、後は見渡す限り蓮が広がっているという荘厳な風景だった。
 幾つもの手のひらよりも一回り以上大きな緑の葉が沼をびっしりと覆い、丁度赤ちゃんの手が上を向いているような薄紅色の花がその間にぽつぽつと咲いている。都会では植物なんて保護の対象なのだが、ここの植物は色が濃く人間の保護など不要とばかりの生命力が感じられる。生かされているのではなく、自分で生きている。そんな印象だ。
「凄いな、この景色は。まるで何かの映画みたいだ」
 誰に言われる事もなく、自然と深呼吸を二度繰り返してみる。植物は酸素を合成するからか、空気がうまいという感触があった。特に鼻から喉にかけて通る清浄さが、都会と比べて段違いである。
「ああ、何か生き返る気分だ。空気がうまいってこういう事なんだなあ」
「普段どれだけコンクリートに囲まれているか実感できますね」
「というか、コンクリートって意外と臭うものだったんだな。初めて気付いたよ。それにしても、沼ってもっと汚くて泥臭いイメージがあったんだけど、随分と綺麗なもんだね。泥には違いないけど、何て言うか、綺麗な泥とでも言うような」
「蓮は汚い所では育たないんですよ。今はもう天然の湿地帯なんてほとんどありませんからね。たとえ人工でも、こういった蓮の育つ場所は貴重なんです。維持するだけでもかなり手間がかかるそうで、あまりやりたがる人がいないのです。テーマパークのように儲かるという訳でもないですし」
「道楽でやるにはハードル高いもんなあ。相当好きか特別な思い入れでも無い限り、ちょっとモチベーションは続かないだろうね」
 無数の蓮の葉の間を縫うように、のんびりと景色を眺めながら木造の渡り廊下を進んでいく。廊下は歩くたびにぎしぎしと軋む音を立て、廊下自体が少し揺れているような錯覚さえ覚えた。板の色のちぐはぐさといい、おそらくこの渡り廊下は素人の手作りなのだろうが、そもそも花の咲いた蓮の沼に後から廊下を渡す事が無茶なのだろう。ここを訪れた人に、少しでも近くで蓮を見て欲しいという心配りなのか。植物は育てる趣味も愛でる趣味も無いが、この蓮沼だけは思わず惹き付けられる魅力がある。何となくこれを作った人の気持ちが分かるような気がした。
「おっ。見ろよ、団体さんがいるぞ」
 都会では見られないこの景色に圧倒されながらしばらく進んでいると、ふと渡り廊下の先に大勢の人影が集まっているのを見付けた。それは全部で十数名ほどの老人達だった。盛んに何やら語りつつ、写真を撮ったりうんちくを延べたりと、如何にも楽しんでいるという雰囲気である。ただ、格好がまるでハイキングにでも行くような出で立ちだったので、普段着の俺達とは何か異なる印象を受けた。
「どこかの老人会の慰安旅行って所かな」
「そうみたいですね。皆さん元気そうで」
「歳を取っても元気なままってのはいいよな。身動きが出来なくなるとすぐ老け込むっていうし、俺も将来の事を考えてこの機会に出不精は治してみるか」
「良いと思いますよ。老け込むのは良くないですから」
 そう答えるキョウコだったが、ふと声のトーンが唐突に落ちた事に気づいた。見ると、何やら物憂げな表情で団体の方を眺めている。
「どうかしたか?」
「いえ、ちょっと変な事を考えただけです」
「変な事?」
「私もあんな風に歳を取るのかしら、と」
 確かにおかしな事だ。人が歳を取るのは当然なのに。キョウコの言葉に、普通はそう思う事だろう。しかし俺は、茶化しはせず明るい口調で何の気なしに答える。
「そりゃそうだろ。人間は誰しも老いるもんだ。こればかりはナノマシンでも解決出来なかったからなあ」
「その逆です。もしも私が歳を取らなかったら嫌だな、という意味です」
「なに、ナノマシンは万能じゃないんだから、普通に歳は取る。お互い小皺が気になり出すのは同じ時期さ。むしろ、歳を取らない方法があればとっくにニュースになってるし、誰かが商売にしてるよ」
「そうですね。すみません、本当に変な事を言ってしまって」
 申し訳なさそうに笑い、それからキョウコの表情から憂いが消えた。だがそれは意図して消したものだろう。せっかくの旅行の空気を損なわないために。俺のフォローもあまりうまくなかったが、此れと言ってキョウコを安心させるような材料は、今は全く持ち合わせていないのだ。いやそもそも、明確な答えを出せる人がこの世にいるのかどうか。
 悩んでも仕方のない不安は悩むだけ無駄である。だけど、時々落ち込んでしまうキョウコの言い知れぬ不安も俺には分かるのだ。立ち位置は違うかもしれないが、自分の体はナノマシンでも思い通りになってくれないのか、その不安は時間が経ってどこかで折り合いをつけなければ払拭出来ないのだろう。