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 次回の受診は再来週だったが、何とか無理を聞いて貰い一週間早める事になった。
 その日も仕事は午前中で引き継いで、午後から昼食を抜いてクリニックへ向かった。待合室にはやはり数名ほどの受診者が来ていて、自らの順番が来るのを待っている。皆どういう症状で来ているかは知らないが、今日来ている患者の中では俺が一番深刻なんだ、そんな事を考えながら受付を済ませた。
 待合室でさほども面白くない昼の番組を眺めながら待ち続けるほど小一時間、ようやく俺の順番がやって来た。早速呼ばれた診察室へと向かう。普段なら医者に促されてから椅子へ座るのだが、今回はすぐに椅子に座り担当医と向かい合う。担当医はそんな俺を見て一度目を瞬かせるが、それ以上は何も思わなかったのかすぐに視線をカルテへ移した。
「さて、予定より少々早いのですが。何かありましたか?」
「今のナノマシン化の件なんですが、もうちょっと早めて貰いたいんです」
「今よりもですか?」
 担当医は驚いた表情で俺の顔色を窺うような素振りを見せる。しかし、俺は構わず自分の要求だけを続けた。
「それと、最終的な比率も限界まで引き上げる形で調整をお願いします」
「いや、ちょっと待って下さい。今でも十分あなたはナノマシン化されているんですよ? それをこれ以上というのは、ちょっと穏やかではありませんね。一応国が決めたナノマシン化の比率のガイドラインもある訳ですから」
「国が決めたガイドラインは、単なる無難な指標です。それに、世界平均からすると日本は随分低い数値で定められています。本人の同意書さえあれば、ガイドライン以上のナノマシン化は法的に問題ないはずです。それぐらい、私は職業柄知っていますよ」
「それに間違いはありませんが……。しかし、だからと言って今日すぐにやりましょうという訳にはいきませんよ。急激なナノマシン化は非常に激しい拒絶反応を起こすケースもありますし、何よりあまりに高過ぎるナノマシン化は、人体にどんな影響があるのかまだはっきりと分かっていないんです。最悪の場合、手の施しようのない副作用が起こるかもしれないんですよ?」
「大丈夫ですよ。私は身近で、体をほとんどナノマシン化しているにも関わらず、長年普通の生活をしている人間を知っていますから。それに、私は大なり小なりのリスクくらいは覚悟しているつもりです」
 簡単に説得出来ると踏んでいたのだろうか。担当医は俺がまるで揺るがない事で、ますます困惑の色を強めていった。
「まあ、その、とりあえずです。一体あなたは具体的にどのようにしたいのですか?」
「出来る限り体全部をナノマシン化したいんです。もう、脳以外は全て置き換えたいくらいに」
「脳以外、ですか……」
 その言葉に担当医は深い溜息を一つ付くと、困ったような表情で指を組んでこちらを見据えた。
「良いですか。私はこれまでにもナノマシン化についてのリスクを再三説明いたしましたし、その内容について正しく認識して戴いていると思っています。ですから、月に一度の処置で徐々に浸透させる方法を取らせて頂いている。ここまでは宜しいですね?」
「ええ、私もそういった認識です」
「それが今日になって、スケジュールを速めるだけでなく比率を限界まで上げたいと仰っている。一体何があったのですか? 僭越ながら、私はあなたが非常に理性的で物事に対して理路整然と取り組む方だと思っていましたから、この申し出には非常に困惑しているのですが」
「確かに唐突過ぎるとは自分でも思います。でも、もう流石に限界なんですよ」
「限界?」
「我慢の限界です」
 一瞬、そこで互いの会話が途切れ、妙な緊張感が診察室へ走った。そこに何かを感じたのだろう、担当医は手振りで看護師を奥へと下がらせた。
「先日の事です。私は恋人と旅行に出掛けたのですが、その宿泊先で夜に熱を出しました」
「例の、突然やってくる発熱の事ですよね。昔から何度も繰り返し起こって治らない」
「おそらく。というのは、いつもなら朝には引いてる熱が、その日一日下がらなかったんですよ」
「薬は効かなかったのですか?」
「今まで、解熱剤なんて効いたことなんて一度もありませんよ。飲もうが飲むまいが朝になれば自然と下がる、そういう性質の熱なんですから」
 今処方されている解熱剤にしても、俺にとってはほとんど気休めにしかならない。ただ、熱が上がると急に気が弱くなり恐ろしくてたまらないから、そんな気休めでも欲しくなる。俺にとっての解熱剤なんて、そんな程度の代物だ。
「私がナノマシン化を希望しているのは、ひとえにこの鬱陶しい発熱から解放されたいからなんです。しかし、これだけナノマシン化をしているのに、症状は改善されるどころかむしろ悪化しているじゃないですか。だったらもう、まどろっこしい事は抜きにしたいんです。発熱の原因になり得る箇所は全てナノマシン化し、全身全て整然とした生体リズムを作ってしまいたい。私の目的はそれだけなんです」
「そうですか。大方の事情は分かりました。ですが、やはり私は医者としてそういう短絡的な方法は勧められません。あなたの発熱には必ず原因があるはずなのです。それを無視して全身のナノマシン化を強行するなんて、とても」
「だったら、その原因を早く見つけて下さいよ。一体どれだけ此処に通ってると思ってるんですか!?」 
 直後、これまでのあまりにも消極的な担当医の態度に遂に耐えかね、俺は思わず声を張り上げてしまった。クリニックの中は外よりも遥かに静かで壁も近く、興奮した俺の声は一瞬で冷静さを取り戻させるほど響き渡った。自分でも予想をしなかった失態に驚き、一度深呼吸して自分を落ち着けてから話を続ける。
「……すみません。ともかく、もうこういう事は懲り懲りなんですよ。私はもっと、発熱に振り回されないで人並みの生活を送りたいんです。先生は分かりますか? 原因も分からない発熱と付き合わされる気持ちが。今はただの発熱かもしれないですが、これが何時重病になるのかと思うと、とても気が気じゃないんですよ」
「あなたの心情は良く分かります。ですが、それでは尚更そういった方法は勧められません。医者は感情論で診断を変えてはいけませんから。とにかく、あなたのナノマシン化のプランは現状のままで行います。その上で発熱が無くならないのであれば、発熱自体と付き合う方法を一緒に模索していきましょう」
「それは何の解決にもなってないじゃないですか」
「大丈夫です。今無理をするよりも、いずれ良い治療法も見つかるはずです。その時まで、きちんと体調を整えておく事にしましょう」
 いずれ。担当医のその言葉に俺は失望を隠せなかった。
 ナノマシンの技術が一般化した時、俺は、今こそがその、いずれ、だと確信したというのに。それは一体、どれぐらい後の事になると言うのか。
 冗談ではない。