BACK

 クリニックからの帰路の中、俺は未だ苛立ちを忘れられずにいた。終始ナノマシン化に非協力的な姿勢だった担当医の事もそうだが、自分の体がこれほど思い通りにならない事がとにかく我慢がならなかった。これまで自分の体は労るのが当たり前だと思っていたが、これほど正反対の感情を覚えたのは初めてのことだろう。
 帰る途中、コンビニに立ち寄り一番強い酒を買った。普段はビールくらいしか飲まないのだが、今日は徹底的に飲んでやりたい気分だった。それは憂さ晴らしという意味ではなく、言うことを聞かない自分の体を痛めつけてやりたい心境からだ。
 うちに帰ると、中には誰もいなかった。キョウコは今日は仕事である。まだ帰ってくるには随分と早い時間帯だ。家電のスイッチは自動で入るものの、俺は照明以外を片っ端から消してしまった。今は些細な音でも癇に障って仕方ないのだ。
 ソファーにどっかりと深く腰掛け、コンビニの袋からウィスキーの瓶を一つ取り出す。金属の蓋に手間取りながらも封を切ると、直に口をつけて一息に口の中へ流し込んだ。予想よりも遥かに強い刺激が口の中に広がり、むせそうになりながら飲めたのはほんの一口程度で、勢いを付けて傾けた割に瓶の中身はほとんど減っていなかった。それでもめげずに更に一口二口とウィスキーを飲み続ける。強い酒は飲み続けると喉が焼けるようにひりひりと痛んだ。しかし俺は水で休める事もしないまま、構わず飲む事を続けた。半分も飲んでしまうと、次第に頭がボーッとかすみがかったようになり、体がゆらゆらと揺れ始めた。酩酊とまではいかないものの、ほろ酔いの段階は既に通り越している自覚はあった。本来ならもう止めるべき酒量だが、今回ばかりはまだまだ始まったばかりだと、むしろ追い討ちをかけるように更に続けた。
 それから更にどれぐらい経っただろうか。アルコールも回るだけ回り、瓶を持ったままぼんやり壁を眺めていると、ふと玄関の方からドアの開く音が聞こえてきた。うちの中に入ってくる足音で、キョウコが帰ってきた事を察する。
「ただいま帰りました。早かったのですね。すぐに夕飯に……」
 そう言いながらリビングへ入って来たキョウコは、ソファーで伸びている俺を見て怪訝な顔をする。
「イサオさん、もしかして飲んでいるのですか? スーツもそのままで」
「ああ、そうだよ」
 呂律が回っていない感じはあったが、まだそこそこに話す事は出来た。そんな俺をキョウコは怪訝そうに見つつ、床に落ちていた上着を拾い上げる。すると、その拍子にスーツのポケットに雑に押し込んでいた紙クズがこぼれ落ちる。
「これ、処方箋じゃありませんか?」
「どうせいつもの解熱剤だ。効きやしないから捨てていいよ」
「でも、いつもと名前が違うようですけど」
「何?」
 帰り際に担当医に何か言われた気もしたが、怒りを抑える事で精一杯だった俺はほとんどその内容を聞いていなかった。一体何をよこしたのか、俺はすぐにキョウコから処方箋を受け取り内容を確かめてみる。
「……おいおい」
 そして、その書かれた内容に、酔いで収まりかけていた頭の血が一瞬で沸騰した。
「くそっ!」
 俺は怒りに任せて処方箋を丸めてゴミ箱へ投げ付ける。ゴミ箱へはうまく入らず床へ落ちてしまったが、そんな事はどうでも良かった。とにかくその処方箋が憎らしくてたまらなかった。
「ど、どうなさったのですか? 突然こんな」
「あのヤブ医者! 俺に安定剤なんか出しやがった!」
 おそらく俺があまりにナノマシンの事で食い下がったから、気を落ち着けさせておこうと考えたのだろう。処方薬は薬局で必ず説明を受けるが、俺が薬剤師である事を知っているにも関わらず黙って処方箋に書くのは、まさに遠回しな嫌味を言っているのと同じ事だ。落ち着けと伝えたいなら、ちゃんと正面から話すべきである。これは、今まで築いていたはずの医者と患者の信頼関係を壊す行為だ。こんな卑怯な不意打ち、とても寛容的にはなれない。
「くそっ、やっぱりおかしいと思ったんだ。俺がナノマシンを増やしたいって言ったら、急に態度を変えやがって。医療事故が起こったら告訴されて廃業に追い込まれると思ってるんだよ。そのための同意書だっていうのに、くそっ」
「ナノマシンを増やす? どういう事ですか? 初めて聞きましたよ、私は。今日はただの診察ではなかったのですか?」
「そうだよ、言ってないよ。でもな、俺はさっさとこんな体質からおさらばしたいんだ。お前だって嫌だろ? 今のままじゃ、この間のようにろくに旅行だって出来ないんだぞ」
 先日の連休を利用した旅行は本当に散々なものだった。観光の一つもするどころか、個室の温泉に一度浸かったきりという、自分でも何をしにわざわざ遠出して来たのか分からなくなるくらいのものだ。それもこれも、原因は俺の発熱を繰り返す体質にある。一日でも早くこのおかしな体質を治したいのに、それをする立場であるはずの医師が阻んだのだ。この状況で冷静になれという方が無理である。
 しかし、
「……確かに、今のあなたには安定剤が必要なのかもしれませんね」
 キョウコはそう一言話すと、俺が投げ捨てた処方箋を拾い上げて伸ばし始めた。
「おい、今何って言った?」
 思わぬキョウコの言い様に、俺はカッとなるのと同時に酷く動揺した。元々、キョウコはあまり強く自己主張をしたり積極的に意見を述べるような事をしない。それが、妙に通る声ではっきりと、俺に向かって真っ向から異を唱えたのだ。こちらも反射的に強気で突っ掛かったが、それ以上はどうしたらいいのか分からなかった。
 他に言い返そうにも言葉がうまく出せず唸っていると、キョウコはそのまま俺の傍らに座った。そして、こちらとは顔を合わせないまま、そっともたれるように肩を寄せて来る。
「話して下さい。何があったのですか?」
「何も無い。今言った通りだ」
「本当にそうですか? あなたがこれほど荒れるなんて、私達が付き合うようになってから初めてですよ。相当な事情が無いとおかしいと思います」
「自分の体調の事が、相当な事情にならないのかよ」
「それでも、あなたは今までちゃんと付き合っていたじゃありませんか。それが、どうして急にどうしたのです? まるで焦っているよう」
「……死ぬかどうかかもって思うんだよ。急に症状が悪化したんだから。普通は心配するだろ、それくらい」
「なら、どうして私に話してくれなかったのです?」
「反対するだろ、お前は。ナノマシンなんかいいものじゃないって、普段から言ってる癖に」