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 ここ数日、俺の勤める薬局には、親子連れや母親が子供の処方箋を持って来るケースが急激に増えてきた。ちらほらと噂には聞いていたのだけど、新型インフルエンザが遂にこの界隈にも来たようである。突然高熱と筋肉痛が始まり、抵抗力の弱い幼児に蔓延する一方、成年以上の発症率が極端に低いというのが主な特徴だ。何十年か前に流行ったインフルエンザに遺伝子類似しているからだろう、というのが専門家の見解である。
 処方箋の内容はどれもほとんど同じで、一日一回三日間の抗インフルエンザ剤に解熱剤や痛み止といった諸症状を緩和する薬の組み合わせだ。これは毎年通例の組み合わせなのだけれど、今年は新型であるため既存の抗インフルエンザ剤の効果は不安視されている。また素人が要らぬ騒ぎを、この手の話題を聞くたびに幾度もそんな文句を胸に抱き、要らぬ苛立ちを腹で腐らせる。
 今日は取り分け午前中から忙しく、在庫のチェックもままならないほどだった。やはり客の大半は新型インフルエンザ関係の処方箋で、常連以外の顔もちらほらと見掛けられた。休憩も取る暇もなく対応を続け、ようやく昼食にありつけたのは昼も大きく過ぎた二時過ぎの事だった。客足は完全には途絶えていないものの、午前中に比べれば雲泥の差で、ようやく客対応以外の仕事にも着手が出来た。それも大方目処が立ち、そろそろ処方箋受付の締め切り時間になろうかという頃だった。しばらく見ていなかったあの主婦が、店先からして大きな話し声を上げながら来店した。よりによって一番疲れる相手がやって来た事に、表に出せない舌打ちを心の中で打つ。
「おや、まだいつもの薬は残っていると思ったんですが」
「それがね、うちの末っ子もかかっちゃったのよ。例の新型インフルエンザ。昨夜からずっと凄い熱で困っちゃったわよ。学校からは一週間も出席停止なんて連絡が来るし。どっち道行けやしないのにね。しかも旦那まで出社停止だっていうから、今日は朝から家に居るのよ。一応仕事はしてるみたいだけど」
「それは災難でしたね。熱が上がると幻覚が見える事もありますから、十分気をつけて下さい。意外と高熱の事故って多いんですよ」
「そういえば何やらうわ言ばかり繰り返してたわね。帰ったらベッドに縛り付けておこうかしら。ところで変な話をするようだけど、この薬って本当に効くのかしら? ほら、テレビでも色々と言ってるじゃない。実際は製薬メーカーは効き目を保証してないとか、効き目には個人差があって副作用が出る事もあるとか。何とかっていう薬物ジャーナリストが言ってたわ」
「あんなのは所詮素人意見ですから、あまり気にしなくていいですよ。そんな一か八かみたいな薬が認可される国なんてありません。それに、薬は組み合わせて使って病気を治すものですから、効き目が現れなかった薬が一つ二つあるのが普通です」
「本当? 大丈夫なのね? まあイサオちゃんがそう言うなら信じるわあ」
「あくまで一般論ですよ。メディアや薬剤師の言う事より、専門医の言う事を聞いて下さい」
 メディアの流言蜚語に惑わされないでくれるなら重畳だが、かと言って俺が言ったからと信じ切って吹聴されるのも困る所である。俺が出来るアドバイスなんてものは、その大半が専門書やマニュアル等で学んだ事で、何でも正確に理解している訳でもなければ解説も出来ないのだ。自分が理解していない説を自分の与り知らぬ所で広められたくはない。
 応対に時間をかければかけるほど、ただでさえ疲れている体には堪える。受け取った処方箋の内容を手早く準備し、彼女へ渡して会計も済ませる。ポイントカードへの加算も忘れない。普通の客は薬を受取ればすぐに帰るのだけれど、彼女はここからの立ち話が長い。そして、案の定今日もまた長話へ持ち込もうとする意気込みが容易に見て取れた。
「この新型インフルエンザっていうのはどれぐらいで治るものかしら? あの子、今日はずっと寝ていて何も食べてないのよ。体が弱らないかしら」
「薬を飲めばあっという間に熱だけは下がりますよ。本当に驚くくらい。熱が下がれば食事も出来るはずです」
「あら、随分凄いのね。でも、そんなに強い薬を三日も飲まなくちゃいけないの?」
「ウィルスの活動が弱まっただけですからね。全部死滅するまではもう少しかかるんです。そのために、会社や学校には行かないように言われるんですよ。症状が出ていなくても、インフルエンザウィルス自体は人へ感染しますから」
「なるほど、そういう事なのねえ。あらやだ、私ったらマスクもしてなかったわ」
「うちは発症するような子供はいませんから」
「あら、まだだったわね。それにしても、こういう病気ってどうにかならないのかしらね。ほら、ナノマシンがあるじゃない。あれでこう、病気にかからないようにする事は出来ないの?」
「ナノマシンはあくまで体の機能を制御するだけですからね。代謝を促す事は出来ても、元から体に出来ない事は出来ませんよ」
「でも、せめて熱ぐらいはね」
「それは生理現象ですから。むしろ、下手にいじらない方が体には良いんです。確かに発熱は辛いんですけどね」
 発熱の事は、不本意だが俺は人一倍詳しいつもりである。体が熱を発するのは必ず意味があって、大概が防衛的な理由によるものだ。発熱を止める事自体は理論的には可能らしいけれど、深刻な副作用は免れないし、何より身体中をナノマシン化しなくてはならなくなる。俺よりも致命的な発熱が繰り返される訳でもない限り、ほとんど無意味な処置だろう。
「さ、そろそろ戻られたらどうです? 早く息子さんにお薬を飲ませませんと」
「あらいけない。やだわあ、すっかり長話してしまって。それじゃあね」
「お大事に」
 店内のどこに居ても聞こえる大きな話し声が遠ざかっていくと、ようやく終わったとばかりに溜め息が自然と漏れた。覚悟していたよりかは楽に追い返せたが、少し休みたい気分である。もっとも、これから閉店までの仕事がたっぷりと残っているのだけれど。