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 その日も仕事は順調に終わり、帰宅も普段通りの時間に収まった。特にこれといった趣味を持っていない俺は、平日の帰宅後は大体風呂と夕食の他は寝るぐらいしかやる事がない。たまにテレビや映画を観たりもするが、特に観たいものだけを選んで観る質なので、それ以外はただつけていて眺めたり音楽代わりにしている事が多い。キョウコはキョウコでよくテレビを観ているものの、それらの話題を振ってくる事はさほどない。まるで熟年夫婦のような状態である。よくキョウコから不満が出ないものだと思いつつ、何も改善もしようとしないまま今に至る。
 今日は外が蒸し暑かったため体が汗でべとつき、夕食より先に風呂へ入る。外の気温よりもずっと高いお湯に浸かると実に心地が良く、仕事の疲れもあっという間にすっ飛んでいくような気にさせる。同じ体温が上がるのでも、発熱の気持ち悪さとは天と地である。もしも上せさえしなければ、いつまでも浸かっていたいものだ。
 水で冷やしたタオルで頭を冷やしつつ肩まで浸かっていたが、やはり十分もそうしていると息苦しさとだるさが顕著になって来る。そろそろ頃合いだろうと、体を洗うため浴槽から出る。さほど伸ばしていない髪は時間をかけずざっと洗い、次に体を洗う用のスポンジを手に取ると、ふと石鹸が泡立たないほど小さくなっている事に気が付く。確か昨日もぎりぎり使えるかどうかというサイズだった。さすがにいい加減もう無理だろう。新しいのを出して貰おうと浴室の戸を開けてキョウコを呼びかけるも、それぐらいは自分でやろうと思い直し、脱衣所へ出る。
 確か洗面台の棚にストックがあったはず。裸のまま脱衣所をうろつき買い置きの石鹸を探す。体は十分温まっているので寒さは感じないが、あまりもたついては湯冷めしてしまい風邪をひく。早めに見つけ出さなければ。
 脱衣所にはさほど多くの収納は無く、洗面台の隣のボード内を見るとすぐに買い置きの石鹸を見つける事が出来た。包装の紙に指をかけて開こうとするものの、こういう時に限って端だけが破れて開け難く変わってしまう。無駄に思える糊代の強さに、顔をしかめずにはいられなかった。
「……ええ、はい。ここの所は大分落ち着いています。はい」
 その時、不意にリビングの方からキョウコの話し声が聞こえてきた。何やら電話をしているようだったが、やけに声を潜めている。
 風呂に入っているはずの俺に聞かれたくない会話なのだろうか。下世話とは思いつつ、少し位置を移動して耳を傾ける。
「熱はいつも通りです。ただ、まだちょっと重い症状が出る事もあります。いえ、そこまで酷いものではありません」
 一体誰と話しているのだろうか。一瞬浮気を疑ったが、キョウコがそんな事をするとは思えないし、会話の内容もそうは聞こえない。それに、何やら俺の事を話しているような様子だ。
「はい、それに関しては全く。ただ、ナノマシンについてはもうこれ以上の継続はなさそうですので、少なくとも悪化はないと思います。詳しいことはお医者様にきちんと確認しないとはいけませんが。はい、そうです」
 やはり話している内容は俺の事だろう、馴染みのある言葉に確信を強める。しかし、ナノマシンで悪化するという表現にはいささか疑問を感じた。ナノマシンは人体を生理を操作したり整頓したりするためのものだ。悪化するというのは逆ではないのだろうか。
 一体キョウコは誰とこんな話をしているのだろうか。俺は体が冷えるのも気にせず、キョウコのか細い声に耳をすます。
「気になりますのは、最近はより昔の事を思い出せなくなってきた事です。はい、ほとんど断片的にも。ナノマシン化を継続しない以上、進行はしないと思われるのですが……。えっ、それは、その……」
 不意にキョウコは申し訳なさそうに言葉を詰まらせる。何か聞きにくい事を訊ねられたのだろうか。
「はい、すみません。それは変わらず……。ええ、出来るだけ注意は向かないようにはしています。ただ、思い出せない事に自覚症状が出ていますから、もしかすると……」
 一体これは俺の何についての会話なのか。自覚症状やら不安がる意味やら、一体全体訳が分からない。
 直接キョウコを問い質したい。よほどそうしたい心境だった。しかし、何となくの直感ではあるが、こういうイレギュラーなタイミングで訊ねるような件でもないような気がする。ならばこれ以上は聞かない方が良いのかもしれない。
 俺は音を立てぬようそっと浴室へ戻る。冷えた体を温め直すために浴槽へ浸かり、そこでまだ手にした石鹸が包装を取っていない事に気が付き、お湯へ落ちないよう慎重に剥がしていった。
 今の会話、まるで俺が進行形で昔の事を忘れていって、それをキョウコが観察しているように聞こえる。観察結果を俺に聞かれぬよう、上司的な相手に電話で報告。今の状況で出来る想像はそんなものだ。
 そんな馬鹿な事があってたまるか。俺は強く意識してそれを否定する。それではまるで、キョウコは好意を持ってではなく、仕事か何かで俺に近づいた事になるではないか。そういった類のどんでん返しは、古い映画や小説で散々使い古されているものだし、現実世界で起こる事はまず有り得ない。第一、そんな事をするメリットが俺にはない。俺はただの熱っぽい一般人でしかないのだ。
 だが、現にキョウコはあんな事をしている。少なくとも、何か理由か目的があってしているのだ。一体それは何なのか。俺が自覚出来ないような、そんなさりげない事が日常に紛れているのか。いや、それこそフィクションの世界だ。