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 朝はキョウコが朝食の準備を終えた頃に起こしにやって来るので、その時に俺は起きる。それから顔を洗って髭を剃り身嗜みを整えた後、朝食を取る。朝はざっとテレビのニュースに目を通しはするが、特別興味深い見出しでも無い限りはそれだけに済ませて、後は天気予報で気温と降水確率だけ念入りにチェックする。スニーカーで行くべきか、ブーツで行くべきか、違いはその程度のものだ。
「おはよう」
「おはようございます。なんだか眠そうですね」
「ああ、昨夜は寝付きが悪かったのかも。まあ、一日くらいはなんとかなるさ」
 そう普段通りの挨拶を交わしながら朝食の席に着く。実際昨夜は何度も目を覚ましたので睡眠不足は否めないが、その原因は偶然聞いてしまったあのキョウコの会話にある。一体どういう事なのかと事情を想像し思い悩んだのもそうだが、今朝どのような顔をしておけばいいのか困っていたのだ。結局ただ何も知らない振りをするだけにしたのだが、取り敢えずキョウコは俺が盗み聞きした事には気づいていないようなので、当面は取り繕えそうである。こうやきもきするくらいならいっそ正面きって訊ねてみたいのだが、どうせあの様子からでははぐらかされるに違いないだろう。
 朝食を済ませて一休みした後、後片付けをするキョウコを置いて一足先に仕事へ向かう。職場までの道程はさほど長くは無いものの、今朝は寝不足で体がだるいせいか思うように足が運べず、駅までの距離が随分長く感じた。
 未だ続く新型インフルエンザの流行のため、今日も仕事は朝から目の回るような忙しさだった。しかし、そんな状況に置かれても頭の隅には必ずキョウコの声がこびりついていた。やはりあの会話の内容はどうしても気になって仕方がない。そんなものは今は重要ではないと、頭から振り払って仕事に集中するのだけれど、不意に脳裏を過ぎる言葉にどうしても一瞬仕事の手を止めさせられてしまう。
 これまで悩み事は幾つもあったが、こう具体的にどうにかなるまで至ったのは初めての事かもしれない。実生活に影響が及ぶくらいならば、それこそキョウコを問いただすべきである。けれど、それにはこれまでの日常を大きく傾けてしまうかもしれない怖さがあって、何か理由をつけて避けてしまうのだ。だけど、聞かなかった事にはどうしても出来ないし、するべきではないのかもしれない。
 昼休みに入れたのは、正午を大きく回った一時過ぎの事だった。あまりの忙しさに、始業からあっという間に時間が経ったように思えたが、同時にそれが錯覚であるとばかりに相応の疲労感がのしかかってくる。流石に疲れまでは忘れてくれないらしい。ナノマシンには、一時的に代謝を促進して怪我や疲労を急速に回復する技術がある。けれどこれは細胞の寿命を縮める危険性があり、まだ未知の部分もあるため一般化はされていない。キョウコの体の事情もこれに基づくものだ。この技術が一般的になれば、もっと働く事が苦痛でなくなるだろうとは思う。ただ同時に、よりきつく働かされる羽目になるのではとも思うが。
 今日は相当疲れが溜まっているせいか、せっかく昼休みに入れても食欲が全くわかず、休憩室に重い腰を下ろして小さく溜め息をつきながらうつむくばかりだった。目まぐるしいほど忙しい時期は珍しくないが、食欲がなくなるほど疲れたのは久し振りの事である。ある程度の充実感のためには疲労も必要だが、さすがにこれは過剰だ。もう十分過ぎるほど働いたとも思うが、午後もまだ仕事が残っている。処方箋の受付もまだまだ続くだろうし、他にも細かな問い合わせや相談にも対応しなければならない。自分がこういう体質だけに、いざという時に薬を頼りにする人の気持ちは良く分かるのだ。ちょっとくらい疲れたからと言って、簡単に早退する訳にはいかない。
 何とか自分の疲労感に折り合いをつけ、前向きに午後の仕事へ挑む心意気を作る。
 食欲が無いなら、せめて飲み物ぐらいは飲んでおこう。スポーツドリンクなら幾らかエネルギーの足しになるはず。それと、販売部の誰かに良く効く栄養剤か何かを訊いてみる事にしよう。多少高くとも社員なら三割引だし、実際どれくらいの効果があるのか試してみたい。
 そう思って椅子から立ち上がった時だった。
「んっ?」
 腰を上げた瞬間、突然酷い立ちくらみを起こして目の前が真っ暗になり、そのまま立っていられずその場にへたりこんでしまった。
 貧血を起こしたか。昼食も食べずに、疲れた体で急に立ち上がったからだろう。そんな事も起こるはず。そう苦笑いし、視界が次第に元へ戻って行くのを待ちながら改めて立ち上がろうとする。しかし、どういう訳か足腰がまるで自分のものではなくなったかのように力が入らなかった。気持ちだけは力を確実に強く込めている。それなのに、肝心の膝や腰を力がすり抜けている。まるで深い水の中へ居るかのようだ。
 何かおかしい。とてもただの疲労に思えない。
 視界は徐々に晴れていくものの、今度は背筋に悪寒が走り歯の根が少しずつ噛み合わなくなって来た。体の疲労感は鉛を背負っているかのような重さに変わり、口から出る呼気がやけに苦味走っているように感じる。
 この症状は自分でも良く知っているものだ。けれど、いつもはここまで唐突ではないし、日中に来る事も無い。こんな事は異例だ。
 まさかと思い、そっと額に手を当ててみる。すると、手のひらには驚くほどの熱さが、額には冷たい感触が同時に伝わってきた。