BACK

 かなり強めの薬を射たれたのだろう。病院へ着いて間もなく、俺は処置室の中で半ば気絶するように眠りに落ちた。薬の副作用による眠気は、自然のそれとは違って重苦しく非常に不快なものである。当然寝ている間も、夢こそは見ないものの異様な拘束感に苛まれていてとても休むどころではなく、一刻も早く目を覚ましたいとすら思いながらうなされていた。
 ようやく目を覚ますと、そこは真っ暗な病室だった。回りに人の気配が無いところを見ると、どうやら個室であるらしい事が分かった。もっと良く確かめようと体を起こしてみる。変な気だるさはあったが、ほぼ普段通りに動かせる感触があった。額に手を当てても熱っぽさは無く、頭を強めに振っても頭痛はしない。ここがどこの病院で、どんな処置を受けたのかは知らないが、ひとまず体調は回復しているらしかった。
 廊下から僅かに漏れて来る非常灯の明かりを頼りに、ぐるりと部屋中を見渡してみる。落ち着いた色調であろう木製の壁に、誰が描いたのか分からない海の風景画、小さな冷蔵庫とテレビといった程度のものが確認出来た。
 一体自分に何が起こったのか。冷静になってこれまでの出来事を思い出してみる。自分の記憶は職場の休憩室を這うようにして出た所で一旦途切れている。おそらくそこで気を失って、誰か同僚に救急車を呼ばれて運び込まれたのだろう。そこから更に思い出してみると、次はストレッチャーから診察台に移し替えられて医師らしき人物と何か会話を交わした光景が浮かんだ。その後に点滴の針を刺されたようだから、今まで俺を眠らせたのはこの時の薬だろう。そこから後はぷっつりと途切れている。
 熱で昏倒するなんて、生まれて初めての経験である。そもそも、仕事場で発熱し即日入院など想像もしなかった出来事だ。こうして現に病室に居るにも関わらず、どこか実感を持てていない。頭が完全にすっきりしていないせいもあるが、どこかまだ夢を見ているような気分さえした。我が身に起こった出来事が、にわかには信じられないのだ。
 そこまで考えた途端、また不意に強い眠気が襲って来た。薬がまだ効いているのだろう。起こしたばかりの体を再び横たえると、そのままあっという間に眠ってしまった。本当はもっと色々状況確認をしなければならないのだろうが、今は眠気の方が圧倒的に優っていた。
 次に目が覚めたのは、ややくぐもった院内放送の音楽に起こされての事だった。のろのろと体を起こし、枕元にあった時計を見ると、午前七時を指していた。頭は久し振りにすっきりしている。相当長く深く眠ったようだ。薬による眠りだからいささか体はだるかったが、気分は極めて良好である。
 程なくして、部屋のドアがノックされ看護師が入って来た。手には医療用端末を持っている。朝の回診だろうか。
「お目覚めになりましたね。御気分は如何ですか?」
「ああ、はい。何とか。ただ、どうやってここに来たのか覚えてなくて。それにここはどこの病院ですか?」
「南二区の区立病院です。かかりつけた事はあります?」
「いえ。でも、そこの処方箋は見たことがあります。自分、薬剤師なもので」
「あら、そうでしたか。急な発熱で倒れられたと聞きましたが、患者様にお風邪でも貰ったのでしょうかね」
「今流行ってる新型インフルエンザではありませんか?」
「いいえ、検査結果では陰性になっていますよ。そもそも、症状からして違いますからね。では、朝の検温をお願い出来ますか?」
 うなずき、体温計を受け取り脇に挟む。そういえば、子供の時にもこうして体温計で熱を計った事があったような気がする。どんな状況で計ったのか、その詳細な状況までは覚えていないのだけれど。
「ところで、もう一つ。後で書類はお持ちしますが、家族親類への連絡先を書いて頂きたいのですが。ちょっと手違いがありまして、まだ戴いてなかったんです」
「家族ですか? すみません、自分は家族はもういないもので」
「あら、そうだったんですか?」
 看護師は意外そうな表情で小首を傾げる。
 そんなにおかしな事を言っただろうか。不明瞭な反応にいささか戸惑う。見たところ、まだ若く経験が浅いようだから、誰か他の患者と聞き違えでもしたのだろう。
「ああ、でも同棲相手は居るんです。そうだ、連絡なら彼女にしないと」
「もしかすると夜にいらっしゃった方かしら。長い黒髪が綺麗な方。保険証や入院手続きとかされて行きましたよ。でも随分若くありません?」
「彼女は童顔なんですよ。本人も少し気にしていますので」
 そうでしたか、と微苦笑を浮かべた所で体温計が鳴った。
「五度八分、熱はすっかり下がったようですね」
「ええ、おかげさまで。すぐにでも退院しますよ」
「ですが、念のため検査をしていかれた方が良いですよ。こんな急に熱が上がるなんて、普通は有り得ませんから。何かの病気なのかもしれませんよ」
「いえ、自分は生まれつきそうなんですよ。今回はたまたま職場で出ただけです。一晩も寝ればすぐ引きますから、御心配なく」
「何をおっしゃるんですか。あなたはもう三日も昏睡していたんですよ?」
「えっ? 三日?」
 予想外の言葉に驚き、慌てて周囲から日付の確認出来る物を探す。ベッド脇のキャビネットには俺が通勤で使っている鞄があった。すぐさまそれを手繰り寄せて開くと、中から携帯電話を取り出してスリープを解除する。メイン画面に表示された日付は確かに三日後のものだった。何かの不具合で時間がずれただけかとも思ったが、着信履歴やメールには、未読未確認のものが昨日一昨日の日付で幾つか並んでいる。本当に職場で倒れてから三日も過ぎてしまったようだ。
「とにかく、この後で先生が回覧にいらっしゃいますから。退院は先生の許可が無ければ出来ませんよ」
「は、はあ」
「さあ、ベッドへお戻り下さい。今朝食を用意しますから。食欲は如何ですか?」
「多分、食べられると思います」
「復食メニューになると思いますが、あまり無理はしないで下さいね」
 そう言い残し、看護師は病室を後にする。
 一人残された俺はしばらく唖然としたまま壁を見つめていた。まさか知らぬ間に三日も経過していたなんて、にわかには受け入れがたい事実だ。だけど、わざわざこんな嘘をついて俺を騙す理由などあるはずはないのだから、たとえ信じられなくとも信じなければならないのだろう。
 ますます俺の体調は悪くなっていっているのではないか。このまま進むと本当に―――。
 普段出来るだけ頭から追い出すようにしているそれをうっかり意識してしまうと、とても恐ろしくてたまらなくなり、腰から下が抜け落ちてしまうような錯覚を覚えた。